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【コラム】談判、潜伏、真っ向勝負…戦争に直面した北朝鮮・金氏王朝3代の選択 (1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

北朝鮮の金日成(キム・イルソン)主席が1994年6月に平壌(ピョンヤン)を訪問したジミー・カーター元米国大統領を大同江(テドガン)の遊覧船で迎えている。[中央フォト]

#1994年6月16日。平壌(ピョンヤン)を訪問したジミー・カーター元米国大統領が、北朝鮮の金日成(キム・イルソン)主席(当時)と会談した。翌日、2人は大同江(テドガン)の遊覧船に乗り込み会談を続けた。北朝鮮が核凍結をする見返りに国際社会が軽水炉を提供し、1カ月後に南北首脳会談を開催することで合意した。

#2003年2月12日。金正日(キム・ジョンイル)国防委員長は平壌市中区域西門洞(ソムンドン)のロシア大使館を訪れた。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が自身の誕生日を祝う祝電と贈り物を届ける伝達式に出席するためだった。その後、彼は4月3日までの50日間、北朝鮮メディアから姿を消した。


◇北核危機と韓半島(朝鮮半島)の戦雲


1990年代以降、韓半島における最大の懸案は北朝鮮の核(北核)だった。北朝鮮は度重なる対話の場に現れては凍結の約束と破棄を繰り返し、核能力を増強させてきた。金日成時代にはプルトニウムを、金正日時代には高濃縮ウラン(HEU)を交渉のカードとした。金正恩(キム・ジョンウン)時代に入ると、核弾頭を搭載できる大陸間弾道ミサイル(ICBM)まで登場し、核兵器保有宣言に続いて核弾頭の小型化を主張するに至った。

米国は決定的な瞬間には必ず戦争の選択肢を持ち出した。1994年6月がその代表例だ。北朝鮮が国際原子力機関(IAEA)の核施設査察を妨害し、「ソウル火の海」発言に続いて寧辺(ヨンビョン)の5メガワット黒鉛減速炉の稼働中断、核燃料棒の取り出し、停戦協定の無効化と軍事停戦委員会の脱退宣言で脅威を高めた。これに対し米国は秘密裏に寧辺爆撃を準備した。米国が昨年6月にイランの核施設を爆撃したように、核施設のみを攻撃するいわゆる「外科手術的攻撃(サージカル・ストライク、Surgical Strike)」によって、北朝鮮の核能力の無力化を既定事実化した。米国の攻撃シナリオを察知した金泳三(キム・ヨンサム)政府が戦火拡大の懸念を提起して制止したが、米国は意に介さなかった。ビル・クリントン米大統領(当時)は、戦争によって約100万人の死傷者が発生しかねないという報告書を見て「目が覚めるような内容だった」と自身の回顧録『マイライフ クリントンの回想』に記している。それでも米国は兵力1万人の増員と空母、長距離巡航ミサイル、F-117ステルス爆撃機を動員するシナリオに従い、カウントダウンに入った。莫大な犠牲を払ってでも軍事オプションで北朝鮮の核開発を阻止するという、文字通り一触即発の状況だった。攻撃開始の直前、ジミー・カーター元大統領が平壌を訪問して金日成主席と会談し、面談直後にホワイトハウスへ電話をかけて伝えた「北朝鮮が核プログラムを凍結する代わりに(核爆弾製造が不可能な)軽水炉型原子炉の建設を望んでいる」という内容をクリントン大統領が受け入れたことで、韓半島はかろうじて戦争の危機から脱した。

それから9年後の2003年1月。北朝鮮の別の核兵器製造物質であるHEU生産活動が危機を再燃させた。当時、北朝鮮は国際社会の圧力に反発して核拡散防止条約(NPT)を脱退すると、外務省は凍結していた核施設を稼働させると威嚇した。これに先立ち2002年10月のジェームズ・ケリー北朝鮮特使の訪朝以降に始まった第2次北核危機が最高潮に達した。「強硬には超強硬」という典型的な北朝鮮式の対応だった。

イラクの生物化学兵器を除去するために第2次湾岸戦争を準備していた米国も反応した。ジョージ・W・ブッシュ米国大統領は「北朝鮮に対する軍事行動も考慮している」と明らかにし、外科手術的攻撃から集中爆撃、さらには戦術核兵器を北朝鮮に使用する案まで検討中だという話も流れた。米国がその年の3月20日にイラク攻撃に踏み切ったことで、北朝鮮も事態を軽視できる状況ではなくなった。金正日は長期間にわたり潜伏し、対応戦略の樹立に没頭した。金正日が公開活動を再開した後、北朝鮮は6カ国協議への参加を決め、戦争の火の粉は回避された。


【コラム】談判、潜伏、真っ向勝負…戦争に直面した北朝鮮・金氏王朝3代の選択 (2)

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