<創刊企画「大韓民国トリガー60」(53)>9年間で農家の所得が10倍に…100カ国に広まった「良い暮らしを」(1)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
2025.11.24 16:14
セマウル運動は成果の評価に基づいて優秀な村を差別支援した。河川整備事業の風景。 [中央フォト]
セマウル運動は突然登場したわけではない。49年の農地改革法と58年に始まった地域社会開発事業は農村近代化の出発点だった。5・16軍事政変の直後、朴正熙は農民の生活を改善してこそ民心もつかむことができると考えた。政府は慢性的な農村問題の解決のために農漁村高利債の整理に着手した。農漁村開発公社を設立し、農工並進政策も進めた。農村女性の「節米貯蓄」(朝と晩に米を一握りずつ減らして集める方式)、村金庫運動など自助と節約運動も表れた。全国的には「農漁村所得増大特別事業」も始まった。伝統農業方式から抜け出し、市場性が高い作物を生産する営農構造への変化を図った。
◆ハウスで野菜を栽培する新農法開発
68年の第1次農特事業にはおよそ2万の農家が参加し、参加農家の所得は都市勤労者の平均所得を上回る成果を出した。この時期、忠清北道清原(チョンウォン)の河四容(ハ・サヨン)氏の成功事例は朴正熙にセマウル運動の必要性を確信させる契機になった。
農家での雑役などをしていた河氏に大豆油を塗って作った「大豆油窓戸紙ハウス」(初期型ビニールハウス施設)を利用して野菜の栽培に成功した。70年にソウル市民会館で開かれた「全国農漁民所得増大特別事業競進大会」で河氏の発表は深い印象を残した。この日、朴正熙は壇上に立って彼の手を握り、「無から有を創造した生き証人」と称賛を惜しまなかった。河氏は銅塔産業勲章を受章した。河氏の成功談はセマウル運動の代表的な教育教材に活用された。
農家の参加が増え、72年に農特事業は「セマウル」と統合・拡大して「セマウル所得増大事業」に変わった。同年5月、朴正熙は光州(クァンジュ)で開かれた全国セマウル所得増大競進大会に出席し、セマウル運動の方向と性格をより一層明確に表した。朴正熙が作成したこの日の演説の草稿文は16ページにのぼった。最高統治者の農村開発に対する緻密なデザインと支援の意志がそのまま反映された。「セマウル運動とはセメントと鉄筋で農路を築いて橋を架けることなどだ。簡単にいうと良い暮らし運動だ。勤勉・自助・協同がセマウル精神だ…。これから同事業は所得増大事業として進めていかなければいけない」。
「我々も一度、良い暮らしをしてみよう」という耳慣れたセマウル運動キャンペーンの歌が生まれたのもこの時期だ。「夜明けの鐘が鳴った、新しい朝が明けた。誰もが起きてセマウル(新しい村)を育てよう~」で始めるセマウルの歌も全国に響いた。72年に朴正熙大統領が歌詞を付けた曲だ。村会館に設置されたスピーカーから流れるこの歌が早朝から住民を目覚めさせた。年に365日繰り返し聞きながらセマウル運動は住民の日常生活そのものになった。
セマウル運動は屋根改良数、下水溝の改善、村の道路改善の長さ、村の河川改善、村金庫資産、農家所得金額、共同事業数など10個の指標を中心に評価した。この指標は非常に簡単で客観的であるため、誰でも理解することができた。政府は全国3万4000余りの村の成績をこの指標に基づいて評価し、優秀な村には多くの支援をした。成果に基づく差別支援戦略だった。
朴正熙大統領は機会があるたびにセマウル運動の優秀村を直接訪問した。セマウル勲章も導入した。優秀セマウル指導者を青瓦台に招請して激励した。セマウル指導者はいつでも道知事・市長・郡守に会うことができる証書を作った。
セマウル運動が展開された70年代、全国のすべての農村には男女各1人ずつの指導者が活動した。韓国農村経済研究院によると、79年末に全国には7万1000人の指導者がいた。河四容氏のようなセマウル指導者は「金を稼げる農業をするべき」と呼応した。彼らは村を経営するCEOだった。
<創刊企画「大韓民国トリガー60」(53)>9年間で農家の所得が10倍に…100カ国に広まった「良い暮らしを」(2)
この記事を読んで…