<創刊企画「大韓民国トリガー60」(52) >「蝶で稼ぐとは」 ミスター地方自治・金大中、咸平で理想を見た(1)
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2025.11.21 15:49
戦争中だった52年4月、釜山で初めての基礎議会議員選挙が実施された。当時、自治体長は官選、地方議会議員は直選制であった。[写真 中央選挙管理委員会]
当時の地方選挙は政治ブローカーまでが動員されるなど混濁の中で行われた。親李承晩勢力が地方議会を席巻した。国連は「公正な競争が行われなかった」と指摘した。このように構成された官製地方議会は民意を前面に出して直選制改憲支持と国会解散を要求した。
政権延長の意図で始まった地方自治だったが、こうした誕生の原罪とは別に、大韓民国民主主義制度の定着に向けた重要な手段であるのは明らかだった。歴史的な側面でも名分は十分だった。日帝の国権侵奪前、我々は自らの力で近代化改革を試みたことがあった。甲午・光武改革だ。朝鮮という古い服を脱いで近代国家に進もうという「国家大改革」の試みだった。その一環として地方自治的要素を導入して地方行政の効率化を図ろうとした。失敗したが、このような精神は1948年に制定された制憲憲法に反映され、地方自治制の導入を明文化した。
このように始まった地方自治は長くは続かなかった。61年の5・16軍事政変で地方議会は解散した。革命課題成就と行政能率化が名分だった。その代わり「地方自治に関する臨時措置法」で市長・郡守は官選制に戻った。地方自治は30年を超える冬眠に入った。特に72年の維新憲法は「地方議会は祖国統一が実現するまで構成しない」と明示した。
地方自治がまた水面上に出てきたのは87年6月の民主抗争時代だった。盧泰愚(ノ・テウ)民正党代表は6・29宣言に地方自治制の実施を含めた。直選制改憲と共に地方自治法が全面的に改正された。その後、90年に3党合党に反発した金大中(キム・デジュン)は地方自治制の貫徹を対与党闘争の核心として13日間の断食闘争もした。それでも自治団体長選挙は延期され、91年に地方議会議員だけを選ぶ中途半端な復活に終わった。地方自治制の完全な施行は金泳三(キム・ヨンサム)政権当時の95年6月27日だった。住民が自治団体長と地方議員を共に選んだ第1回全国同時地方選挙が施行された。これは「匿名性の行政」から4年ごとに住民の票で審判を受ける「顔のある行政」への転換だった。
◆不親切な官冶が住民親和的な行政へ
盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権は分権の黄金期を開こうとした。しかし一方では「地方分権委」(金秉準委員長)と「国家均衡発展委」(成炅隆委員長)の間の主導権争いもあった。成炅隆(ソン・ギョンリュン)が推進した新行政首都移転という巨大談論がすべてのイシューをのみ込みながら、金秉準(キム・ビョンジュン)が推進しようとした財政分権は後回しになった。
李明博(イ・ミョンバク)政権は効率性を前面に出したが、4大河川事業など中央主導事業で自治を萎縮させた。朴槿恵(パク・クネ)政権も地方自治に対する実質的な意志を見せず、地方分権の時計は動かなかった。文在寅(ムン・ジェイン)政権当時は「地方自治法全部改正」と「自治警察制」で再始動をした。しかし大統領選挙当時の「連邦制水準の分権」公約は後退した。自治警察制も行政安全部と警察庁の官僚の抵抗で人事・予算権のない「うわべだけの自治」で誕生した。尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権は地方時代を掲げたが、以前の政権が作った「釜山・蔚山・慶南特別連合」が廃止されるなど意味のある進展はなかった。
このように地方自治時代は各政府の哲学により浮沈を繰り返した。財政分権などのいくつかの側面で不足する面も多い。しかし今年で30年を迎える民選自治制の施行は韓国の政治・行政システムを変えた「トリガー」の役割をしたという点は否認しがたい。行政実名制をはじめ、住民投票やリコールなど住民の参加を拡大する民主主義を実現する制度的枠組みが用意された。また、情報公開請求の活性化、住民体感型行政サービスの導入なども実現した。不便で不親切だった官冶中心の行政は住民親和的サービスに変わった。顔を見るのも難しかった団体長が住民に直接会って意見を聴く姿は官選時代には見られなかった風景だ。
<創刊企画「大韓民国トリガー60」(52) >「蝶で稼ぐとは」 ミスター地方自治・金大中、咸平で理想を見た(2)
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