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韓日が400年の歴史が刻まれたツバキ「五色八重」に真偽問題浮上

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

蔚山(ウルサン)市庁前の庭にある五色八重。[写真 蔚山市]

韓国慶尚南道(キョンサンナムド)に位置する蔚山(ウルサン)市。同市庁前の庭には韓日両国の長い歴史が物語として刻み込まれた1本のツバキが立っている。高さ2.5メートルのこのツバキは31年前に京都から蔚山にやってきた。樹齢は今年で41年。木は五色、八重の花が咲くといって「五色八重」と呼ばれる希少種だ。1590年代、日本の将帥が蔚山にあった木を日本に持ち帰り、その後400年ぶりに韓国に戻ってきて市庁の広場に植えられたというその「蔚山椿」だ。

◇「五色八重」に真偽問題が持ち上がる

三一節(独立運動記念日)を控えた中で、蔚山でこのツバキの由来を巡り真偽問題が持ち上がっている。韓国と日本を行き来したという木にまつわる物語が実は十分に検証されていない嘘の説話という一部学者の主張が提起されながらだ。蔚山市のある幹部公務員は27日、「ツバキの由来が間違っているという主張が相次ぎ、蔚山歴史研究所に由来に関する検証を依頼して最近報告書を受けた。現在該当内容を改めて丁寧に検収・検討している」と明らかにした。


真偽問題は昨年上半期から本格的に浮上していた。地域植物学者などのメディアへの寄稿、文化解説士の情報提供、市民のうわさなどを通してだ。社団法人韓国湿地環境保全連合のチョン・ウギュ博士はメディアへの寄稿文で「(蔚山市が)ツバキについて十分考証せずに広報ばかりに気を使っていたところ、でたらめな情報が拡大再生産されている」と主張した。チョン博士は「在日大使館の文化教育担当領事や元駐日教育官らの協力を得て調査をしたが、蔚山市庁前の庭に植えられたツバキと日本の五色八重散椿は木の形や、葉の形、花が咲く時期などあらゆる点で異なり、同じ木と見ることができなかった」と主張した。

ある文化解説士もほぼ同じ時期、蔚山地域報道機関に情報を提供して「京都歴史資料館に『蔚山椿の説話の根拠や史料はあるか」を尋ねたが、京都側が書面答弁書を通じて「根拠になる史料や資料集などは公式に発刊したことはなく確認することはできない」と明らかにしたと伝えた。当時公開された京都歴史資料館の答弁書には「古い記録物にはツバキの由来についての資料はなく、20世紀以降の刊行物では言及されたものがあった」とも書かれている。

◇秀吉が寺に捧げた「蔚山椿」

木の由来探しに地方自治体まで乗り出すほどの理由は、このツバキのまつわる歴史的象徴性のためだ。ツバキは壬辰倭乱(文禄・慶長の役)当時、倭将の加藤清正が蔚山鶴城(ハクソン)で初めて見つけたという。加藤は木の美しさに一目で心を奪われ、これを掘って日本に持ち帰り、君主の豊臣秀吉に捧げたという。秀吉はツバキを自身と縁があった京都の寺院・地蔵院に寄贈した。1世代の木は1983年末に枯死し、2・3世代が寺院で育った。寺院は地蔵院という本来の名前よりも「椿寺」としてのほうがよく知られている。寺院側はツバキの林の周りに柵を張り巡らせて保護し、花が満開の様子が写された写真を法堂に別途に飾るほど木を神聖視したという。

ツバキの歴史的象徴性は再び韓国につながった。1989年当時韓国芸術文化団体総連合会のチェ・ジョンドゥ蔚山支部長が地蔵院でツバキを発見した。地域団体および仏教界などが返還運動を展開し、最初は拒否していた日本側も結局返還に同意した。1992年5月1本のツバキが韓国に持ち込まれ、その木が蔚山市庁前の庭に植えられた。蔚山市関係者は「当時樹齢10年の3世代の苗木3本が帰ってきたが、蔚山市庁、独立記念館、慶南泗川(キョンナム・サチョン)朝明軍塚に1本ずつ植えられた」と説明した。現在は蔚山市庁に植えられたものだけが生き残り、残りは枯死した。蔚山市(ウルサンシ)農業技術センターなどの努力で4世代50本余りが別途育てられている。蔚山市庁前の庭の3世代の近くにある小さな木10本がその4世代だ。

このような歴史的象徴性のため、ツバキは蔚山では特別待遇を受けている。蔚山の茶人団体は毎年ツバキの花が咲く時期に献茶祭を開いている。2021年には蔚山ツバキ保存会が結成された。蔚山市が支援する蔚山椿歌謡祭も開かれている。



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