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【中央時評】セウォル号続く梨泰院、また犠牲を浪費するのか(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
父母の骨は山に埋め、子の骨は胸に埋めるといった。治癒と忘却のない世間で最も悲痛な悲しみが大切な子に先立たれることだ。息子を亡くした悲しみをどうすることもできなかった詩人の金東里(キム・ドンリ)は「ジンが一つの雲になって去った日/空には聾唖者のような太陽だけが出ていた…」とし、作家の朴婉緖(パク・ワンソ)は「あなたは本当に存在するのか、存在するのなら私の息子はなぜ死ななければならなかったのか…何か言ってほしい」と絶対者に向かって絶叫した。

大韓民国がその重みと深みを測量さえできない残酷な悲しみと苦痛の沼に陥った。船尾だけが水上に突き出たセウォル号の悲惨な記憶が鮮明だが、今度はソウルの真ん中で158人の美しい若者たちが昇華した。言葉では言い表せない子どもたちの早世が残る人たちの胸を押さえつける。安全な社会を築けなかったという自責が悔恨として戻ってくる。このあきれるような死の原罪から自分も自由でないことを、私たちはみんな無言で知っているからだ。それで梨泰院(イテウォン)の路地を通るときはあの日の夜のように胸が締めつけられ、犠牲者の魂への菊一輪にも胸が裂けそうになる。

ところが為政者の世界は別に動いている。悲しみに共感できないようなことが連日生じている。責任転嫁、犠牲の羊、そして今では悲痛な犠牲さえも生け贄としようとする。野党の政治家と親野性向の元記者が「言論」として急造したインターネットメディアが遺族の同意なく犠牲者155人の名簿を公開し、天主教正義具現司祭団が犠牲者を呼びながら「追悼ミサ」を行った。遺族への2次加害という批判と災難の政治化攻防が政界を熱くしている。李在明(イ・ジェミョン)共に民主党代表は「名前も顔もないところにどうやって国民が焼香して哀悼するのか」と言ったが、弔問客が喪主を叱るような姿だ。話にならない。名簿公開を望まない多くの遺族の胸を突き刺すのと変わらない。犠牲者一人を知らなくても胸に重くのしかかる経験をしていれば、このような発言ができるだろうか。これだから追慕も哀悼も彼らには政争の手段にすぎないのかとため息がでる。すでに広場では「ろうそく」「退陣が追悼」などのスローガンが聞こえる。「犠牲者を匿名の陰の中に埋めることで波紋を縮小しようとすることこそが災難の政治化であり政治工学だ」という野党の主張は、逆説的に犠牲者実名公開が彼らの政治工学的な利害得失によって生じたものであることを知らせる。


追悼をするなということではない。惨事の原因究明と責任者の処罰に反対するのでもない。政治がここに留まってはいけないということだ。哀悼に没頭して憎悪を深めても安全な社会になるわけではない。梨泰院惨事は8年前のセウォル号惨事を浪費したことにその原因があることを政治は直視しなければいけない。悲劇を政治遊びに浪費した残酷な代償に粛然としなければいけない。


【中央時評】セウォル号続く梨泰院、また犠牲を浪費するのか(2)

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