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【中央時評】梨泰院惨事:恐ろしい現実、恐ろしい心(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

尹錫悦大統領夫人の金建希氏が2日、ソウル蘆原区のある葬儀場に設けられた梨泰院惨事の高校生犠牲者の葬儀場を訪れ、遺族を慰めている。[写真 大統領室]

ソウル龍山(ヨンサン)梨泰院惨事で156人が死亡した。そこには世界14カ国の26人が含まれる。誰も予想できなかった悲劇だ。深い哀悼の意を持つのは我々が同じ人間だからだ。特に、さらに大きな傷は、今回の事態が地震・台風・崩壊を含むいかなる人間外的な要因もなく、ただ群衆密集・職務放棄・対応失敗をはじめとする人間的な要因で発生したことだ。ソウルの真ん中で一度に立って死亡し、下敷きになって死亡し、窒息して死亡するという事態は想像さえできなかった惨事だ。

事件の大きさから、原因と責任、謝罪と再発防止のための議論と究明は必須だ。我々の共同体は人命事故の頻発と対策の反復という悪循環に慣れている。しかしその輪を断つのは我々みんなの時代的使命だ。大きな悲しみが要求する大きな悟りをいう。

まずは法的責任だ。事態当時の「職任」と「職務」に基づく措置だ。すなわち職任がない人は法的責任がない。したがって「我々みんなの責任」という言葉は「誰にも責任がない」という言葉と同じだ。法的責任を倫理的問題で覆う危険な論理だ。職任者の公的責任は決して個人に対する人格的次元ではないからだ。ただ職責・責務に対する非人格的・非個人的な責任をいう。


要するに、公正と公平の原則だ。この個人とあの個人、自分側と相手側によって異なる適用になれば法でない。法治の第一原理だ。モンテーニュとパスカルをはじめ近代の正義=法の観念を築いた先賢は、それを山と川のこちらと向こうに例える。したがって法は特定の人と党派を越えて接近しなければならない。しかし今日の党派と陣営の溝は法の適用で山よりも高く川よりも深い。

法的な責任を越えるところに影響力による政治的責任が存在する。2つは時には重なり時には異なる。3つ目は共同体市民として社会倫理的な責任だ。4つ目は人間としての苦しさと共感意志だ。3つ目と4つ目はみんなの責任意志と反省をいう。

四次元すべてで梨泰院惨事は我々の恐ろしい2つの心と2つの現実を見せる。現場の死んでいく一方と踊って歌う別の一方の存在は、後者が前者を知っていたかどうかはともかく事態当時の2つの現実だ。しかしさらに恐ろしいのは事態後の現実と心だ。無辜の集団死に対する陣営と派閥による激しい接近と言葉は、結果が原因を見せる覆った断面だ。死と問題解決の政治化と派閥化をいう。

その間、我々はソロモンの審判の主人公を正しく知らなかった。ソロモン王ではない。子を救おうとする母だ。偽の母は子を引き裂いて半分ずつ持とうと主張する。殺しと一人占めの論理だ。半面、本当の母は子を引き裂くことができず譲歩する。「とてもできない」という心が生んだものだ。裁判はその時すでに終わった。人間と国の存続の本質だ。

法律と政治、市民と個人のすべてが独占のために犠牲者と国をこれ以上引き裂いてはいけない。今からでも子を助ける本当の母にならなければいけない。子は青年にも、国にも、梨泰院以降の生活にもなるかもしれない。半分ずつ分けて独占しても子だけが死ぬ。そのような時、我々が自ら見せたように「短期的」なセウォル号・産業災害・市民災害・梨泰院一つ一つはもちろん、「巨視的な」自殺と低出産1位、高齢者と青年貧困、地方消滅と人口消滅、そして人間消滅と国家消滅への行進はさらに速くなるだろう。


【中央時評】梨泰院惨事:恐ろしい現実、恐ろしい心(2)

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