19世紀の英国画家ウィリアム・ホルマン・ハントの代表作に『スケープゴート(The Scapegoat)』(邦題『贖罪の山羊』)という絵があるが、韓国では「犠牲の羊」と訳されることがある。山羊一匹が荒涼な塩湖で瀕死状態で息を切らせていて、その周辺には山羊の悲劇的未来を暗示する獣の骨がところどころに見える。旧約聖書レビ記によると、古代イスラエルでは「贖罪の日」の名節に山羊一匹を選んでその頭に手をのせてイスラエル民の罪を一つ一つ詠じてその罪を山羊に負わせた後、広野に放つ風習があったという。古代人は自然災害や戦争のような災難が罪に対する神の懲罰だと考え、その罰から逃れようとこのような贖罪意識を挙行した。社会構成員を安心させて一つにまとめる効果はあったが、もともとの災難を防ぐためには何の効果もなかったのはもちろんだ。
今日の英語単語「スケープゴート」は社会を揺るがす大きな問題が生じた時、社会構成員の都合により、その問題の過ちをすべて背負わされて後ろ指を指される個人または少数集団を指す言葉になった。「犠牲の羊」の直訳である「sacrificial lamb」とはニュアンスが若干違うが、2つを同じ意味で混用する場合が多く、スケープゴートを犠牲の羊と訳しても大きな問題はない。今からこの文で論じる「犠牲の羊」はスケープゴートを意味する。
東西古今問わず社会に大きな災難が降り掛かった時、人々はその何かのせいにする犠牲の羊から探すと、米国で最も人望ある地震学者の一人であるルーシー・ジョーンズ氏は述べた。ジョーンズ氏は著書『The Big Ones:How Natural Disasters Shaped Us』(以下『The Big Ones』、2018)でさまざまな部分における「犠牲の羊」探しの副作用について言及している。
この本で扱っているのは自然災害だが、現代の自然災害は被害を抑えることができたのにそうすることができなかった人災を兼ねている場合が多く、すべての災難に適用することができる。特に第9章で集中的に分析しているのは、2005年米国ニューオーリンズ市のハリケーン・カトリーナ惨事だ。はっきりとした死亡者数だけで1464人に達するカトリーナの災難を韓国でも覚えている人は多いだろう。対応無策という状況と罹災者のみじめな姿を見て口々に「どうして先進国でこんなことが…」と言いながら衝撃を受けた。当事者である米国人の衝撃は言うまでもない。
そのため「人々は犠牲の羊を数え切れないくらい多く捜し出したがその中でも(中略)二つの意見が最も優勢だった。それが『政府の過ち』、そして『犠牲者の過ち』だった」とジョーンズ氏は述べる。梨泰院惨事に対する私たちの社会の反応を思い起こさずにはいられない。もちろんカトリーナと梨泰院圧死事故は性格がずいぶん違う。カトリーナは自然災害なので不可抗力的な側面がある一方、これまでのハリケーン経験と専門家の正確な予測シナリオがあったにもかかわらず、抑えることができた被害を防げなかったため、誰も予測できなかった梨泰院惨事よりも人災だった側面もある。そのため単純比較はできないが、ただしその災難に対する人々の態度と収拾に関して専門家ジョーンズ氏の論評を参考にする必要がある。
◆被害者を恨む心理
カトリーナ当時、ニューオーリンズ市民のうち10万人が避難指示を守らず残っていたため被害を受けた。犠牲者への同情と救護を送りながらも自業自得を指摘する米国人も多かったという。そのうえ「メディアは蔓延した無法状態と暴動のように見える状況を描写し、私たち全員から犠牲者の過ちを捜し出そうとする衝動を引き出した」とジョーンズは述べる。事実は市民の中には自動車を持っていないか、避難命令を聞くのが遅すぎてやむをえず残っていた場合が多かったという。このような事実を無視して犠牲者に同情しながらも「犠牲者に責任を問うことによって自身を犠牲者と分離しようとする人間の欲求」、すなわち「残念だがあの人々は気を付けなかったせいだ。私と私の家族は気を付ければ大丈夫」という人間の欲求は常にあるとジョーンズは厳しい忠告を与える。
梨泰院惨事に対する反応と重なる部分があるではないか。特に韓国メディアの「救急車の横で歌を歌う」など編集されていないノーフィルターの報道および「現場に行った人間はみんなあのような感じだろう」というように皮肉るコメントと重なる。実際、そのような人も一部いたが、それがこの圧死事故の核心ではない。ソウル大学言論情報学科のキム・ウンミ教授は「韓国ニュースが大衆に伝えられる方法が主にポータルを通じてスーパーマーケットの棚に陳列されるように提示されているため、競争の中で速報や刺激的なニュースに集中することになる」と指摘する。
誰かは「自然災害で亡くなった人と遊んでいて亡くなった人をどうやったら比較できるのか」と主張するかもしれない。実際に「そこになぜ行ったか」「働いていて亡くなったのではなく、遊んでいて亡くなった人々に対して哀悼期間まで持たなければならないのか」という言葉がインターネットやソーシャルメディアで少なからず出ている。しかし私たちの大部分は仕事もして遊びもする人間だ。そのうえ遊びこそが人類文化の起源であり原動力であると、オランダ文化史学者ヨハン・ホイジンガは『ホモ・ルーデンス(遊ぶ人間)』(1938)で主張した。
【コラム】政府のせい、被害者のせい、でなければハロウィンのせい?=韓国(2)
今日の英語単語「スケープゴート」は社会を揺るがす大きな問題が生じた時、社会構成員の都合により、その問題の過ちをすべて背負わされて後ろ指を指される個人または少数集団を指す言葉になった。「犠牲の羊」の直訳である「sacrificial lamb」とはニュアンスが若干違うが、2つを同じ意味で混用する場合が多く、スケープゴートを犠牲の羊と訳しても大きな問題はない。今からこの文で論じる「犠牲の羊」はスケープゴートを意味する。
東西古今問わず社会に大きな災難が降り掛かった時、人々はその何かのせいにする犠牲の羊から探すと、米国で最も人望ある地震学者の一人であるルーシー・ジョーンズ氏は述べた。ジョーンズ氏は著書『The Big Ones:How Natural Disasters Shaped Us』(以下『The Big Ones』、2018)でさまざまな部分における「犠牲の羊」探しの副作用について言及している。
この本で扱っているのは自然災害だが、現代の自然災害は被害を抑えることができたのにそうすることができなかった人災を兼ねている場合が多く、すべての災難に適用することができる。特に第9章で集中的に分析しているのは、2005年米国ニューオーリンズ市のハリケーン・カトリーナ惨事だ。はっきりとした死亡者数だけで1464人に達するカトリーナの災難を韓国でも覚えている人は多いだろう。対応無策という状況と罹災者のみじめな姿を見て口々に「どうして先進国でこんなことが…」と言いながら衝撃を受けた。当事者である米国人の衝撃は言うまでもない。
そのため「人々は犠牲の羊を数え切れないくらい多く捜し出したがその中でも(中略)二つの意見が最も優勢だった。それが『政府の過ち』、そして『犠牲者の過ち』だった」とジョーンズ氏は述べる。梨泰院惨事に対する私たちの社会の反応を思い起こさずにはいられない。もちろんカトリーナと梨泰院圧死事故は性格がずいぶん違う。カトリーナは自然災害なので不可抗力的な側面がある一方、これまでのハリケーン経験と専門家の正確な予測シナリオがあったにもかかわらず、抑えることができた被害を防げなかったため、誰も予測できなかった梨泰院惨事よりも人災だった側面もある。そのため単純比較はできないが、ただしその災難に対する人々の態度と収拾に関して専門家ジョーンズ氏の論評を参考にする必要がある。
◆被害者を恨む心理
カトリーナ当時、ニューオーリンズ市民のうち10万人が避難指示を守らず残っていたため被害を受けた。犠牲者への同情と救護を送りながらも自業自得を指摘する米国人も多かったという。そのうえ「メディアは蔓延した無法状態と暴動のように見える状況を描写し、私たち全員から犠牲者の過ちを捜し出そうとする衝動を引き出した」とジョーンズは述べる。事実は市民の中には自動車を持っていないか、避難命令を聞くのが遅すぎてやむをえず残っていた場合が多かったという。このような事実を無視して犠牲者に同情しながらも「犠牲者に責任を問うことによって自身を犠牲者と分離しようとする人間の欲求」、すなわち「残念だがあの人々は気を付けなかったせいだ。私と私の家族は気を付ければ大丈夫」という人間の欲求は常にあるとジョーンズは厳しい忠告を与える。
梨泰院惨事に対する反応と重なる部分があるではないか。特に韓国メディアの「救急車の横で歌を歌う」など編集されていないノーフィルターの報道および「現場に行った人間はみんなあのような感じだろう」というように皮肉るコメントと重なる。実際、そのような人も一部いたが、それがこの圧死事故の核心ではない。ソウル大学言論情報学科のキム・ウンミ教授は「韓国ニュースが大衆に伝えられる方法が主にポータルを通じてスーパーマーケットの棚に陳列されるように提示されているため、競争の中で速報や刺激的なニュースに集中することになる」と指摘する。
誰かは「自然災害で亡くなった人と遊んでいて亡くなった人をどうやったら比較できるのか」と主張するかもしれない。実際に「そこになぜ行ったか」「働いていて亡くなったのではなく、遊んでいて亡くなった人々に対して哀悼期間まで持たなければならないのか」という言葉がインターネットやソーシャルメディアで少なからず出ている。しかし私たちの大部分は仕事もして遊びもする人間だ。そのうえ遊びこそが人類文化の起源であり原動力であると、オランダ文化史学者ヨハン・ホイジンガは『ホモ・ルーデンス(遊ぶ人間)』(1938)で主張した。
【コラム】政府のせい、被害者のせい、でなければハロウィンのせい?=韓国(2)
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