先月初め、世宗(セジョン)文化会館で創作オペラ『スニ(順伊)おばさん』を見た。1948年に起きた済州(チェジュ)4・3事件を素材にした作家ヒョン・ギヨン氏の小説『スニおばさん』を原作として、済州市(済州アートセンター)と済州4・3平和財団が共同制作した作品だ。
上演後のカーテンコールには原作者のヒョン・ギヨン氏も舞台に登場した。小説『スニおばさん』を発表した1978年当時の韓国は軍事政権時代で、済州4・3はダブー視された時代だ。実際、ヒョン・ギヨン氏は軍機関に連行されて拷問を受け、『スニおばさん』は販売が禁止された。事件から30年が過ぎた当時も済州4・3は公論化するのが難しかったのだ。今は『スニおばさん』発表から半世紀近くが過ぎ、オペラは世宗文化会館大劇場で上演され、約3000席規模の客席は2日間満席だった。舞台で大きな拍手を受けたヒョン・ギヨン氏は感慨無量という表情だった。
私は数年前、韓国の新聞で済州4・3に関するコラムを書いたが、知人から「歴史的評価が分かれる事件であり、書かない方がよい」という忠告を受けた。真相究明を経て盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領(当時)が公式謝罪したのは2003年だが、政権が交代すれば評価がまた変わることもあるということだ。
◆事件から数十年間触れられず
『スニおばさん』は日本でも翻訳版が出ていたため題名は知っていた。まともに読んだのは昨年のDMZ国際ドキュメンタリー映画祭で『スープとイデオロギー』(ヤン・ヨンヒ監督)という済州4・3関連の映画を見てからだ。『スニおばさん』は、済州4・3当時の精神的なショックから30年間苦しんで自ら命を絶った女性に関する話だ。『スープとイデオロギー』に登場するヤン・ヨンヒ監督の母親も済州4・3を体験し、日本に避難した後、家族にその事実を長く隠してきた。ヤン監督は10年ほど前、個人的に母親の記録を残したいと思って映像を撮り始めた。ところが突然、母親が4・3当時の経験を語り、それが『スープとイデオロギー』という映画に作られた。同じ経験をした人たちの長い間の沈黙が母親のトラウマをさらに深めたようだ。
韓国では『スニおばさん』が4・3文学の出発点として知られているが、実際、日本では済州4・3を扱った小説がはるか前に出版されていた。1957年に発表された作家・金石範(キム・ソクボム)氏の『鴉の死』だ。この時期に済州4・3を扱った小説を出せたのは日本だったからだろう。金石範氏は1925年に大阪で生まれた在日コリアンだが、4・3当時に日本に逃れた人たちを通して両親の故郷の済州で起きた事件を聞いたという。1976年から連載を始めて97年に完成した金氏の代表作『火山島』は大佛次郎賞と毎日芸術賞を受賞し、日本で済州4・3を知らせるのに大きな役割をした。『スニおばさん』日本語版も金氏が翻訳した。
一方、『火山島』は2015年に韓国語版が出版された。12巻の大作を翻訳した2人のうちの一人が私が所属する東国大日本学研究所のキム・ファンギ所長だ。私は朝日新聞の記者時代から済州4・3と縁が深い。
金石範氏は満96歳の現在も現役として作家活動をしている。私は運よく今年夏に日本に一時帰国した際に金氏に会うことができた。その日、東京で74周年を迎えた済州4・3追悼講演とコンサートがあり、その後の行事に金氏が現れたのだ。済州から来た知人と一緒にお酒を飲む姿がとても楽しそうに見えた。別れる時にあいさつをしたが、力強い握手だった。後の行事だけに参加するのをみて長く外出するのが体力的にもう大変なのかと思ったが、実際はその日午後3時ごろから別のところでお酒を飲んでいたという。本当に驚くほどの酒飲みじいさんだ。
その数日後、金石範氏の新刊『満月の下の赤い海』を出版社から受けた。3編の小説と対談が収録された本だが、対談の中に「小説を書いていなければこのように長く生きることはできなかった」「小説を書き続けたことで精神力が強くなった」という金氏の言葉があった。小説を書かせた原動力は間違いなく済州4・3だ。その時にその現場にいなかったというのが、むしろ金氏に「書かなければ」という使命感を与えたのだ。
済州4・3追悼行事は東京で毎年4月に開催されるが、今年は新型コロナの影響で6月に開かれ、私も夏休み中だったため参加することができた。中野敏男・東京外国語大学名誉教授は「済州4・3と日本の戦後史」というテーマで講演した。私は済州4・3について取材をしながら関連書も数冊読んだが、今回の講演が新鮮だったのは日本の歴史と結びつく話だったからだ。
中野教授は講演の前、「済州4・3当時にどんなことが起きたのか追悼行事があるたびに何度か振り返った」とし「今回はもう少し広い視野で考えてみたい」と述べた。1948年に起きた済州4・3は、日本の植民支配から解放されて南北分断にいたる転換点に起きた事件だ。韓国だけの単独選挙に反対する済州道民を弾圧し、多くの犠牲者が発生した。
ところが、それは敗戦国の日本を連合軍が統治する過程で起きた事件だ。日本も分割される計画があったが、実際には分割されず、日本の植民地だった韓国が南北に分割された。もう少し遡れば日帝強占期に済州と大阪は船で連結していて、済州の人口の5人に1人は日本に、その75%は大阪にいたほどだった。大阪で労働者として働いた済州出身者はそこで労働運動に参加し、済州4・3につながる批判精神を育んだと中野教授は説明した。済州4・3を済州で起きた悲劇として考えてきたが、日本とつながる歴史という新しい観点で見ることになった。
中野教授は日本でなぜ済州4・3について考えるべきかについて、「日本の植民主義の歴史を問い直し、公正な世界の実現を展望すること」と語った。冷戦の始まりともいえる済州4・3を眺望することは、「新冷戦」と呼ばれる今、韓国でも日本でも広い視野で深く考えてみる必要がある。
【コラム】東京で開かれる済州4・3追悼、日本植民の歴史を問い直す(2)
上演後のカーテンコールには原作者のヒョン・ギヨン氏も舞台に登場した。小説『スニおばさん』を発表した1978年当時の韓国は軍事政権時代で、済州4・3はダブー視された時代だ。実際、ヒョン・ギヨン氏は軍機関に連行されて拷問を受け、『スニおばさん』は販売が禁止された。事件から30年が過ぎた当時も済州4・3は公論化するのが難しかったのだ。今は『スニおばさん』発表から半世紀近くが過ぎ、オペラは世宗文化会館大劇場で上演され、約3000席規模の客席は2日間満席だった。舞台で大きな拍手を受けたヒョン・ギヨン氏は感慨無量という表情だった。
私は数年前、韓国の新聞で済州4・3に関するコラムを書いたが、知人から「歴史的評価が分かれる事件であり、書かない方がよい」という忠告を受けた。真相究明を経て盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領(当時)が公式謝罪したのは2003年だが、政権が交代すれば評価がまた変わることもあるということだ。
◆事件から数十年間触れられず
『スニおばさん』は日本でも翻訳版が出ていたため題名は知っていた。まともに読んだのは昨年のDMZ国際ドキュメンタリー映画祭で『スープとイデオロギー』(ヤン・ヨンヒ監督)という済州4・3関連の映画を見てからだ。『スニおばさん』は、済州4・3当時の精神的なショックから30年間苦しんで自ら命を絶った女性に関する話だ。『スープとイデオロギー』に登場するヤン・ヨンヒ監督の母親も済州4・3を体験し、日本に避難した後、家族にその事実を長く隠してきた。ヤン監督は10年ほど前、個人的に母親の記録を残したいと思って映像を撮り始めた。ところが突然、母親が4・3当時の経験を語り、それが『スープとイデオロギー』という映画に作られた。同じ経験をした人たちの長い間の沈黙が母親のトラウマをさらに深めたようだ。
韓国では『スニおばさん』が4・3文学の出発点として知られているが、実際、日本では済州4・3を扱った小説がはるか前に出版されていた。1957年に発表された作家・金石範(キム・ソクボム)氏の『鴉の死』だ。この時期に済州4・3を扱った小説を出せたのは日本だったからだろう。金石範氏は1925年に大阪で生まれた在日コリアンだが、4・3当時に日本に逃れた人たちを通して両親の故郷の済州で起きた事件を聞いたという。1976年から連載を始めて97年に完成した金氏の代表作『火山島』は大佛次郎賞と毎日芸術賞を受賞し、日本で済州4・3を知らせるのに大きな役割をした。『スニおばさん』日本語版も金氏が翻訳した。
一方、『火山島』は2015年に韓国語版が出版された。12巻の大作を翻訳した2人のうちの一人が私が所属する東国大日本学研究所のキム・ファンギ所長だ。私は朝日新聞の記者時代から済州4・3と縁が深い。
金石範氏は満96歳の現在も現役として作家活動をしている。私は運よく今年夏に日本に一時帰国した際に金氏に会うことができた。その日、東京で74周年を迎えた済州4・3追悼講演とコンサートがあり、その後の行事に金氏が現れたのだ。済州から来た知人と一緒にお酒を飲む姿がとても楽しそうに見えた。別れる時にあいさつをしたが、力強い握手だった。後の行事だけに参加するのをみて長く外出するのが体力的にもう大変なのかと思ったが、実際はその日午後3時ごろから別のところでお酒を飲んでいたという。本当に驚くほどの酒飲みじいさんだ。
その数日後、金石範氏の新刊『満月の下の赤い海』を出版社から受けた。3編の小説と対談が収録された本だが、対談の中に「小説を書いていなければこのように長く生きることはできなかった」「小説を書き続けたことで精神力が強くなった」という金氏の言葉があった。小説を書かせた原動力は間違いなく済州4・3だ。その時にその現場にいなかったというのが、むしろ金氏に「書かなければ」という使命感を与えたのだ。
済州4・3追悼行事は東京で毎年4月に開催されるが、今年は新型コロナの影響で6月に開かれ、私も夏休み中だったため参加することができた。中野敏男・東京外国語大学名誉教授は「済州4・3と日本の戦後史」というテーマで講演した。私は済州4・3について取材をしながら関連書も数冊読んだが、今回の講演が新鮮だったのは日本の歴史と結びつく話だったからだ。
中野教授は講演の前、「済州4・3当時にどんなことが起きたのか追悼行事があるたびに何度か振り返った」とし「今回はもう少し広い視野で考えてみたい」と述べた。1948年に起きた済州4・3は、日本の植民支配から解放されて南北分断にいたる転換点に起きた事件だ。韓国だけの単独選挙に反対する済州道民を弾圧し、多くの犠牲者が発生した。
ところが、それは敗戦国の日本を連合軍が統治する過程で起きた事件だ。日本も分割される計画があったが、実際には分割されず、日本の植民地だった韓国が南北に分割された。もう少し遡れば日帝強占期に済州と大阪は船で連結していて、済州の人口の5人に1人は日本に、その75%は大阪にいたほどだった。大阪で労働者として働いた済州出身者はそこで労働運動に参加し、済州4・3につながる批判精神を育んだと中野教授は説明した。済州4・3を済州で起きた悲劇として考えてきたが、日本とつながる歴史という新しい観点で見ることになった。
中野教授は日本でなぜ済州4・3について考えるべきかについて、「日本の植民主義の歴史を問い直し、公正な世界の実現を展望すること」と語った。冷戦の始まりともいえる済州4・3を眺望することは、「新冷戦」と呼ばれる今、韓国でも日本でも広い視野で深く考えてみる必要がある。
【コラム】東京で開かれる済州4・3追悼、日本植民の歴史を問い直す(2)
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