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【コラム】アヘン戦争を見守った日本「中国は全身が病気の患者」(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

アヘン戦争が真っ最中だった1841年1月、英国東インド会社が作った鉄製蒸気船ネメシス号(画像右側)が清国の帆船を攻撃している。日本はアヘン戦争を契機に中国に対する羨望をもたなくなった。[写真 クルハンアリ]

開皇20年、倭王が送った使節が宮廷に訪ねてきた。高祖文帝は担当官吏にその国の風俗を質問させた。すると使節は「倭王は、天を兄とし太陽を弟とし、夜が明ける前に仕事を始め、座って夜が明ければ政を聴くのをやめて『私の弟に任せ』ます」と答えた。文帝は「これは義理に大きく外れる」と言いながら、これを改めるよう訓令した。

600年、倭国が中国の隋に使節を派遣したときに起きた状況を記録した『隋書』東夷伝の内容だ。興味深いのは倭王が隋に朝貢をしながらも自分を「天の弟であり、太陽の兄」と言って隋の皇帝の気持ちを害した不快にした事実だ。

日本列島にあった小国が中国に朝貢を始めたのは紀元前1世紀ごろからだった。『漢書』地理志には「楽浪の海の中で倭人がいて百個余りの小国をなしている。定期的にやってきて朝貢をする」と書かれている。また『後漢書』東夷伝には57年倭の奴国が来て朝貢したので光武帝が印綬を下賜したと記録している。


◆中国へ向かう使節・学者・僧侶が絶えず

このように古代日本人にとって、中国は朝貢を行い仕えた畏敬の対象であり、先進国だった。7世紀始めから9世紀始めまで遣隋使と遣唐使を派遣したのは先進文明や制度、技術などを学ぼうとするのが目的だった。時々、日本側の傲慢な姿勢のために問題が起きることもあった。607年、遣隋使の小野妹子が持参した国書には「日出ずる処の天子(日出処天子)が日没する処の天子(日没処天子)に書を送る」と言って対等に立ち向かおうとすると、隋の煬帝は激怒するほかなかった。

遣唐使は630年から250年余りの間に合計17回派遣された。使節だけでなく留学を目的とした学者・僧侶が同行した。留学生の中には数十年間留まって唐の学術や文物を学んだ人もいた。彼らが中国から学んで持ち帰った唐の律令や仏教、各種技芸は古代日本が発展するための重要な滋養分となった。

10世紀以降も日本人の中国と中国文物に対する憧憬は続いた。宋と日本を行き来する貿易船に乗って多くの僧侶が中原に渡っていった。日本の貴族は唐錦と呼ばれた中国産シルクに熱狂し、陶磁器・薬剤・書籍・絵画などを先を争って買った。鎌倉時代以降も中国は相変らず先進的な文物があふれる憧憬の対象だった。

1274年と1281年、クビライ・カアン(フビライ・ハーン)が主導したモンゴル(元)の侵略を受けた日本人の元に対する敵がい心と恐怖心は高まった。だが、この侵略以降も元と日本の経済・文化的交流は絶えなかった。1976年陶磁器数万点などとあわせて韓国全羅南道新安郡(チョルラナムド・シナングン)の沖から引き揚げられた沈没船は当時活発だった両国間の交易状況を雄弁に語っている。元国末期、中原に渡っていった日本の禅僧も数百人に達した。

1592年「明 征服」を掲げて壬辰倭乱(文禄・慶長の役)を起こした豊臣秀吉は従来の中国認識に照らすと明らかに「変種」であり「怪物」だった。自ら「太陽の息子」と称して軍事力に大きな自信を持っていた豊臣秀吉は、明を「長袖の服を着た国(長袖国)」、すなわち軍事力が弱い国だとみなしていた。同時に将来明を掌握すれば天皇を北京に移住させて自分は寧波に留まり、インドまで征服すると豪語した。中国に対して極端な自信を見せた。


【コラム】アヘン戦争を見守った日本「中国は全身が病気の患者」(2)

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