西嶋監督がこの問題に対して情熱的な理由は、植村記者が金学順さんの証言に対して報道した1991年に西嶋監督も特派員としてソウルにいたためだ。「私も植村記者が書いた記事と同じ内容を報道したし、他の日本の新聞社や放送局も同じだった。なぜ植村記者だけ非難を受けるのか」。
その理由は彼が象徴的な存在であるためのようだ。朝日新聞は比較的他の報道機関に比べて積極的に慰安婦問題について報道してきた。金学順さんは最初に被害を証言し国際的に慰安婦問題が注目される契機を作り、それを報道した植村記者が『標的』になったのだ。当時金学順さんの証言を報道したさまざまなメディアのさまざまな記者を非難すれば連帯して対抗していただろうが、特定メディアの特定の記者がスケープゴートになった。映画『標的』を見て意図的に朝日新聞と植村記者だけ狙ったということを感じた。
◇朝日新聞「放送編集に政治的圧力」
このように日本メディアはますます慰安婦関連報道に消極的に変わってきた。私は朝日新聞記者時代に主に文化部所属だったため慰安婦関連取材をする機会はなかったが、辞めて韓国に来て慰安婦関連ドキュメンタリー映画に関する記事を日本メディアに書いた時にやはりコメントやSNSで攻撃を受けた。こうしたドキュメンタリーも出てきたという程度の内容だったのに反応が大きくて驚いた。
今年韓国では米ハーバード大学のジョン・マーク・ラムザイヤー教授が書いた慰安婦関連論文に対する批判があふれた。韓国で連日大々的に報道するのを見て当然日本でもある程度報道しているものと思ったがほとんどしなかった。朝日新聞の先輩記者の話では書こうと提案はしたが書けなかったという。
私は2008年に朝日新聞に入社したが、その時はすでに慰安婦問題は扱いにくい雰囲気だった。河野談話が出された1993年当時は日本メディアも積極的に慰安婦問題について報道したものと理解している。西嶋監督にいつから雰囲気が変わったのか尋ねたところ「1997年ごろのようだ」という。1997年は「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」が発足した年だ。この会合は自民党の中の議員連盟であり、当時歴史教科書を「反日的」と指摘して慰安婦問題に対する記述をなくすように活動した。
「それより私が放送局にいて決定的だと感じたのは2001年のNHKのETV特集の時だった」という。NHKは2001年に放映したETVシリーズで太平洋戦争当時の性暴力問題を扱った。放送直前に内容が大きく変わったのだ。「朝日新聞は番組編集に対し政治的圧力があったと報道したのに対し、NHKは圧力はなかったと主張し結局あいまいになった」という。
多分こうしたことが韓国で起きたらジャーナリストが連帯して政府に抗議したりしないだろうかと思うが、西嶋監督は「このことを契機にほとんどすべての放送局で慰安婦問題に対して距離を置き始めたようだ」と話す。こうしたこともあって慰安婦問題に関し朝日新聞が攻撃を受けるようだ。
植村記者が提起した名誉毀損裁判は敗訴で終わった。西嶋監督は「納得が行かない判決だがそれでも裁判所が『ねつ造記者』と認めたのでは絶対ない。敗訴のためにまた誤解を受けている。この映画を見た人はどちら側に正義があるのか理解できるだろう」と言う。『標的』は植村記者ひとりの被害だけ描いたものでなく、日本でどのように慰安婦報道に対する言論の自由が脅かされてきたのかがわかる映画だ。
成川彩/元朝日新聞記者
【コラム】2001年のNHK外圧議論後、日本メディアは慰安婦報道に距離置く(1)
その理由は彼が象徴的な存在であるためのようだ。朝日新聞は比較的他の報道機関に比べて積極的に慰安婦問題について報道してきた。金学順さんは最初に被害を証言し国際的に慰安婦問題が注目される契機を作り、それを報道した植村記者が『標的』になったのだ。当時金学順さんの証言を報道したさまざまなメディアのさまざまな記者を非難すれば連帯して対抗していただろうが、特定メディアの特定の記者がスケープゴートになった。映画『標的』を見て意図的に朝日新聞と植村記者だけ狙ったということを感じた。
◇朝日新聞「放送編集に政治的圧力」
このように日本メディアはますます慰安婦関連報道に消極的に変わってきた。私は朝日新聞記者時代に主に文化部所属だったため慰安婦関連取材をする機会はなかったが、辞めて韓国に来て慰安婦関連ドキュメンタリー映画に関する記事を日本メディアに書いた時にやはりコメントやSNSで攻撃を受けた。こうしたドキュメンタリーも出てきたという程度の内容だったのに反応が大きくて驚いた。
今年韓国では米ハーバード大学のジョン・マーク・ラムザイヤー教授が書いた慰安婦関連論文に対する批判があふれた。韓国で連日大々的に報道するのを見て当然日本でもある程度報道しているものと思ったがほとんどしなかった。朝日新聞の先輩記者の話では書こうと提案はしたが書けなかったという。
私は2008年に朝日新聞に入社したが、その時はすでに慰安婦問題は扱いにくい雰囲気だった。河野談話が出された1993年当時は日本メディアも積極的に慰安婦問題について報道したものと理解している。西嶋監督にいつから雰囲気が変わったのか尋ねたところ「1997年ごろのようだ」という。1997年は「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」が発足した年だ。この会合は自民党の中の議員連盟であり、当時歴史教科書を「反日的」と指摘して慰安婦問題に対する記述をなくすように活動した。
「それより私が放送局にいて決定的だと感じたのは2001年のNHKのETV特集の時だった」という。NHKは2001年に放映したETVシリーズで太平洋戦争当時の性暴力問題を扱った。放送直前に内容が大きく変わったのだ。「朝日新聞は番組編集に対し政治的圧力があったと報道したのに対し、NHKは圧力はなかったと主張し結局あいまいになった」という。
多分こうしたことが韓国で起きたらジャーナリストが連帯して政府に抗議したりしないだろうかと思うが、西嶋監督は「このことを契機にほとんどすべての放送局で慰安婦問題に対して距離を置き始めたようだ」と話す。こうしたこともあって慰安婦問題に関し朝日新聞が攻撃を受けるようだ。
植村記者が提起した名誉毀損裁判は敗訴で終わった。西嶋監督は「納得が行かない判決だがそれでも裁判所が『ねつ造記者』と認めたのでは絶対ない。敗訴のためにまた誤解を受けている。この映画を見た人はどちら側に正義があるのか理解できるだろう」と言う。『標的』は植村記者ひとりの被害だけ描いたものでなく、日本でどのように慰安婦報道に対する言論の自由が脅かされてきたのかがわかる映画だ。
成川彩/元朝日新聞記者
【コラム】2001年のNHK外圧議論後、日本メディアは慰安婦報道に距離置く(1)
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