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【コラム】強大国に囲まれたアフガン、分裂で国民の苦痛続く(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
◆アフガンで米国の罠にかかったソ連

米国はソ連を戦争の死地に直接追い込むよりは戦争勃発の可能性を高めようと努力した。ソ連軍が国境を越えた日、ブレジンスキーはカーター大統領に「今やわれわれがソ連にベトナム戦争をプレゼントする機会を得ました」と書いた。それから10年間、ブレジンスキーが話した通りソ連は体制と帝国崩壊を呼び込んだアフガニスタン戦争に気力を使わなければならなかった。

ソ連は86年、カールマルの代わりに同じパルチャム派のナジーブッラーを権力の座に座らせて政局を収拾しようとしたが効果がなかった。結局ナジーブッラーの軍撤退引き止め要請にもかかわらず、89年2月アフガニスタンから完全に撤退した。ソ連が退いた後、ムジャーヒディーンが単一の隊列を成し遂げていたなら、アフガニスタンは今とは違ってタリバンが登場することもなかったかもしれない。しかしムジャーヒディーンはイスラムの名でソ連に反対するという枠組みで共感していただけの烏合の衆だった。戦士は宗教的にはシーア・スンニ・過激派・中道派などに分かれ、民族的にも分かれていて結集点を見出すのは難しかった。さまざまな色彩のムジャーヒディーンは結局虹を作ることはできず、各自が望むものを得るために互いに戦った。「私は兄弟に対抗し、私と兄弟は従兄弟に対抗し、私と兄弟と従兄弟は世の中に対抗する」という部族主義が強力なアフガニスタンで国民統合は容易ではない。タリバンが成功できた理由の一つはパシュトゥーン族が中心を占めたタリバンがアフガニスタンで多数を占めるパシュトゥーン族の慣習とイスラムを巧妙に結合したためだ。


父系に民族アイデンティティを見出すアフガニスタンで、共産主義パルチャム派のカールマルがパシュトゥーン族として母系を掲げて自身がパシュトゥーン族と言ったのも、パシュトゥーン族であることが認められない限り統治が難しいと感じていたためだ。事実カールマルはパシュトゥーンの地位を下げようと「パシュトゥーン族の国」を意味するアフガニスタンの代わりに、この地域を伝統的に示した話「ホラサン」や「自由民の国」という意味の「アザディスタン」を提案したことがある。しかしこのような動きはパシュトゥーン族の反感を買い、民族葛藤をあおるという逆効果を生んだ。

◆国民統合の重要性に気づいたアフガン

強大国に囲まれた国が生き残れる最善の方策は何よりも国民統合だ。多民族国家であるアフガニスタンは統合のビジョンを持った指導者に巡り合うことができず失敗した。特に国民の過半を占められずとも多数を占めるパシュトゥーン族が1893年に英国が引いたアフガニスタンとパキスタンの国境であるデュアランド・ラインのパキスタン側に多く暮らしているため、アフガニスタン内のパシュトゥーン族独立運動を阻止しようとするパキスタンが絶えずアフガニスタンの内政に関与せざるを得ない構造だ。国民統合が難しいなら、いっそ現在パンジシール抵抗軍の要求通り、各民族の独自自治を認める連邦制がよいと思われるが、ピクリとも食指を動かさない。国民の大多数がムスリムである点を考慮してイスラムを国民統合基準にすればいいような気がするが、分派と宗教観の違いというのは越えられないほどの川幅がある。タリバンを見よ。イスラムの名で国民を困らせるのに長けているだけだ。列強の衝突を防ぐ緩衝地帯アフガニスタンを見て、地政学的要件は似ていてもわれわれが多民族国家でない点に安心する。多文化が危険ではないかと心配する視線もあるが、宗教家が宗教よりも国のほうを前面に出して1919年3・1運動を導いた伝統が簡単に消えはしないと信じている。アフガニスタンは国民統合を大きな教訓としてわれわれに伝えている。

パク・ヒョンド/西江(ソガン)大学Euro-MENA研究所教授


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