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【コラム】「天は自ら助くる者を助く」…歴史の教訓を再確認(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

パク・テギュンの歴史と批評

「我々は我々の関心の程度に合わせて個別国家に対する公約を守らなければいけない。(中略)我々の利益を基準に相対的に順位をつける必要があるということだ。約束が簡単に変わることがあってはならないが、不変性と慣性を混同すべきでない。状況が劇的に変わったり約束を確実に持続できなくなれば、正しい結論を出して、それに基づいて政策を変更しなければいけない」。

南ベトナム政府が崩壊してから10日が経過した1975年5月9日、米国務省の首席補佐官がフォード大統領の国家安全保障補佐官に送った「ベトナムの教訓」という文書の内容だ。同盟または協力関係に合意したとしても状況によっては流動的であるべきという指摘だった。


「今後、我々が約束に対する判断をする場合に最も重要な基準は、同盟国が将来、固有の力と意志で自らを守る能力があるかという点だ。我々が支援したベトナム政府は敵よりはるかに人道的だったが、訓練された強い敵の前で国民の支援を効果的に動員できなかった。我々は事実上、南ベトナムを救うことを南ベトナムよりも我々にとって重要なものにした。(中略)彼らができなければ、我々も彼らの代わりにすることはできない」。


◆「ベトナムでの米国戦争」に色あせ

1969年のアジアでの軍事的介入を避けるという「ニクソン・ドクトリン」と同じ内容だった。ベトナム戦争がベトナム人の戦争でなく「ベトナムでの米国の戦争」になってしまった。米国が支援する政府が自ら守る意志と能力がなかったため、米国のいかなる努力も通じなかった。

「我々は一貫してハノイ(北ベトナム)の執拗な姿勢と目的意識を過小評価し、我々の能力を過大評価した。我々は敵に対する適切な評価なく我々の力を注いだため成功せず、彼らの目標追求を防げなかった」。

ベトナム戦争で表れた最も重要な2つの問題を指摘した。まず相手を正確に評価できず、自らを過大評価したという点だ。『孫子兵法』で戦争勝利の基本公式に挙げられる「知彼知己」ができていなかったのだ。このため「百戦不殆」でなく「百戦百敗」になってしまった。

中国とベトナムの関係についても米国は読めなかった。歴史的に中国とベトナムは拮抗関係を形成していた。朝貢外交で平和な時代もあったが、直接的な戦争の経験も少なくなかった。ベトナムは中国に常に頭を下げるわけにはいかなかった。隣接国のラオスとカンボジアで力を発揮するためには時々、中国との戦争も避けられなかった。

ベトナム戦争の前後にも中国とベトナムの関係は変わらなかった。中国はハノイが推進した1968年の平和交渉に反対し、1972年にニクソン大統領を招請した中国に対するベトナムの感情は良くなかった。改革開放と平和を主張したトウ小平政権がベトナム統一後から4年も経っていない1979年2月、ベトナムに侵攻した。キッシンジャーがフォード大統領に伝えた5月12日付の手紙には、ユーゴのチトーのような独自路線の指導者がいたにもかかわらず、共産主義者を完全に誤って評価したという内容が含まれている。

◆中国-ベトナム関係を理解できなかった米国

こうした関係を理解できなかったため、ベトナムが共産化する場合、ドミノ現象を通じて他の東南アジア国家が中国の影響力の下で共産化すると判断した。米国が本格的にベトナムに介入した1964年、中国は核実験に成功した。しかし逆説的にも中国の影響力を遮断した米国が最も恐れたのは中国のベトナム戦争介入だった。

米国政府の戦術のうち最も特異だったのは、当時の分断線だった北緯17度線の北側には地上軍が進撃しない戦略だった。米軍は韓国戦争(朝鮮戦争)当時に中国軍の介入で防御線が崩壊した経験を忘れていなかった。ベトナム戦争当時、北ベトナムとホーチミンルートに対する爆撃はあったが、地上軍が北ベトナムに進撃することはなかった。38度線北側への北進後に中国軍が介入したことを記憶していたのだ。進撃目標を失った米地上軍は映画『プラトーン』『フルメタル・ジャケット』に登場する最悪の状況を迎えるしかなかった。

米国のもう一つの錯覚は、南ベトナム政府が韓国政府のようにできるという判断だった。介入する地域に対する知識がなかったり、知識があっても作動しなかった。

「我々は外国社会の政治的力学に関する不完全な理解を認めなければいけない。ベトナムで我々は持続的に政治状況を観察し、基本的に西欧的な観点で判断をした。ベトナムのような国家の政治を理解するのは難しいため、政治勢力を操作しようという試みは失敗するだろう。(中略)特に偏った情報と分析を警戒する必要がある」。

米国はベトナムの人々の心を読めなかった。

「広範囲で根が深く大衆的な支持を受ける革命運動の能力を過小評価してはいけない。(中略)そのような社会では植民主義に対する記憶を持ち、多様な程度の外部搾取と民族主義に対する革命的な声がずっと作動している。ベトナムで我々はフランスの植民支配の継承者から決して抜け出せなかった」。

韓国は米国に次いで最も多くの戦闘兵を送った国だった。1972年にはベトナムにいる韓国軍の数が米軍の数より多かった。幸い、1973年に平和協定が発効した当時、多くの韓国軍と現地韓国人が引き上げ、サイゴン陥落当時の被害は大きくなかった。

参戦国として韓国政府も1975年4月29日に談話を発表した。南ベトナム崩壊だけでなく、北朝鮮の金日成(キム・イルソン)主席の中国訪問で危機が高まっている時期だった。談話の内容の核心は「一つになれば生き残り、分散すれば死ぬ」というものだった。南ベトナムの状況をみると正しい言葉だった。しかしより重要な内容は含まれなかった。


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