新型コロナは蚊なのか、ふとそのような考えになった。隠れていたが夜になると出てきて血を吸う蚊のように、新型コロナも午後6時以降に感染力が高まるのだろうか。もちろん、違いはある。蚊は集まっている人の数、また同居の有無や知人関係まで問いただして刺すほど頭は良くはない。全国民主労働組合総連盟(民主労総)だからといって恐れて遠くに逃げたり、逆に太極旗部隊の血のにおいを嗅ぎ分けて標的にすることもない。無差別な攻撃だ。
しかし韓国政府が把握しているコロナは特定状況、あるいは特定勢力に限り脅威となる。たとえば午後6時が過ぎれば数百人が乗る地下鉄の乗客は決して攻撃しないが、タクシーを一緒に乗った3人の乗客には無慈悲な浸透力を誇る。お互い知らない人なら隣の席に座って食事をしても放置するが、血縁・地縁でからんだ関係なら2人を超える瞬間すぐに識別しては絶対に許さない。何よりも最も決定的な違いは、蚊は大統領も刺すことができるが、コロナは大統領に近づくこともできないのではないだろうか。
未開原始時代や絶対王政でもなく民間宇宙観光までが競争する時代に、何の非科学的で無知で新宗教のような声かと思ったが、残念ながら今の大韓民国の防疫レベルがまさにそうだ。現在の政府のコロナ対応は政治防疫なのか防疫政治なのかはよく知らないが、確実な点は、防疫がもはや国民の安寧と健康のための道具ではなく、文在寅大統領の手に握られたカードに転落して久しいという事実だ。
現在の第4波は明白に文在寅政権の失策だ。昨年2月の第1波は新天地教徒、昨年8月の第2波は8・15反政府集会参加者を悪魔化する形で国民詐欺をしたが、今回の第4波はこうした犠牲を探すのも難しい。もちろんこの政権がそのような試みをしなかったわけではない。20代・30代に責任を転嫁しようとしたが、「ワクチンも早期に確保できなかったくせに」という反発が出ると急いで口を閉じた。
犠牲となる羊が見つからないため政府の誤った判断がそのまま表れる。いま怒った民心は、ワクチン政策を決定する重要な場面で「ファイザー・モデルナは高いためワクチン購買を急ぐ必要はない」「ファイザーのような(安全でない)ワクチンを接種しなければいけないのか」など無能な政府の立場ばかりを代弁し、国民を欺まんしてきた青瓦台の奇牡丹(キ・モラン)防疫企画官に一次的に集まっている。鄭銀敬(チョン・ウンギョン)疾病管理庁長も1カ月前、「現在の接種・防疫を維持すれば、7月中旬以降は感染者が大幅に減少するだろう」と楽観していただけに批判から自由でない。時々刻々変わる状況を理解できないわけではないが、防疫当局が7月のワクチン空白をすでに把握していた状態で出た発言ということを勘案すると、あまりにも無責任であり卑怯だ。
より本質的には、専門家らも口をそろえて「必要ない」という席をあえて奇牡丹企画官に与え、人気迎合的な発言ばかり繰り返した文大統領の責任が最も大きい。奇企画官のような政治に汚染された専門家を前に出し、コロナが広がれば「集会禁止」と言って反対派の口止めをする手段として、コロナが弱まればこれまでの国民の犠牲はすべて無視して本人の功績に活用してきたからだ。K防疫とは果たして何か、また、どう評価するかについては意見が分かれるが、専門家も一般市民も協力をした国民のおかげでこれほどの成果が出たという点には誰もが同意する。防御がうまくいけば国民のおかげで、うまくいかなければ政府が誤った信号を与えたということだ。
しかし文大統領だけがこれとは全く違う言行を見せている。K防疫に対する自画自賛は防疫当局の誤った判断の口実となり、その結果、生計が脅かされる犠牲を強要された国民は茫然自失したが、大統領は平然と例外的な特権を享受してきた。国民には体調が悪い親にも会うなと言いながら、本人は参謀陣の送別会は公的な集まりだとして人員制限を軽視する。
また、1月の記者会見では「防疫は非常にうまくいっているので質問はないのか」と自慢しながら、第4波の現実化した後の12日の首都圏特別防疫点検会議では野党の呉世勲(オ・セフン)ソウル市長らを狙って「我々が防疫に失敗すればこの席にいる全員に責任がある」と責任を転嫁する。「非寛容原則」を云々し、原則がない社会的距離については謝罪せず、怒号も忘れなかった。
国民全員が苦痛を受ける時、大統領は日常の不便さえ感じないが、防疫が失敗すれば国民を罰する国。もう国民の忍耐心が限界に近づいている。毎晩、蚊を相手にするだけでも大変なのだが。
アン・ヘリ/論説委員
しかし韓国政府が把握しているコロナは特定状況、あるいは特定勢力に限り脅威となる。たとえば午後6時が過ぎれば数百人が乗る地下鉄の乗客は決して攻撃しないが、タクシーを一緒に乗った3人の乗客には無慈悲な浸透力を誇る。お互い知らない人なら隣の席に座って食事をしても放置するが、血縁・地縁でからんだ関係なら2人を超える瞬間すぐに識別しては絶対に許さない。何よりも最も決定的な違いは、蚊は大統領も刺すことができるが、コロナは大統領に近づくこともできないのではないだろうか。
未開原始時代や絶対王政でもなく民間宇宙観光までが競争する時代に、何の非科学的で無知で新宗教のような声かと思ったが、残念ながら今の大韓民国の防疫レベルがまさにそうだ。現在の政府のコロナ対応は政治防疫なのか防疫政治なのかはよく知らないが、確実な点は、防疫がもはや国民の安寧と健康のための道具ではなく、文在寅大統領の手に握られたカードに転落して久しいという事実だ。
現在の第4波は明白に文在寅政権の失策だ。昨年2月の第1波は新天地教徒、昨年8月の第2波は8・15反政府集会参加者を悪魔化する形で国民詐欺をしたが、今回の第4波はこうした犠牲を探すのも難しい。もちろんこの政権がそのような試みをしなかったわけではない。20代・30代に責任を転嫁しようとしたが、「ワクチンも早期に確保できなかったくせに」という反発が出ると急いで口を閉じた。
犠牲となる羊が見つからないため政府の誤った判断がそのまま表れる。いま怒った民心は、ワクチン政策を決定する重要な場面で「ファイザー・モデルナは高いためワクチン購買を急ぐ必要はない」「ファイザーのような(安全でない)ワクチンを接種しなければいけないのか」など無能な政府の立場ばかりを代弁し、国民を欺まんしてきた青瓦台の奇牡丹(キ・モラン)防疫企画官に一次的に集まっている。鄭銀敬(チョン・ウンギョン)疾病管理庁長も1カ月前、「現在の接種・防疫を維持すれば、7月中旬以降は感染者が大幅に減少するだろう」と楽観していただけに批判から自由でない。時々刻々変わる状況を理解できないわけではないが、防疫当局が7月のワクチン空白をすでに把握していた状態で出た発言ということを勘案すると、あまりにも無責任であり卑怯だ。
より本質的には、専門家らも口をそろえて「必要ない」という席をあえて奇牡丹企画官に与え、人気迎合的な発言ばかり繰り返した文大統領の責任が最も大きい。奇企画官のような政治に汚染された専門家を前に出し、コロナが広がれば「集会禁止」と言って反対派の口止めをする手段として、コロナが弱まればこれまでの国民の犠牲はすべて無視して本人の功績に活用してきたからだ。K防疫とは果たして何か、また、どう評価するかについては意見が分かれるが、専門家も一般市民も協力をした国民のおかげでこれほどの成果が出たという点には誰もが同意する。防御がうまくいけば国民のおかげで、うまくいかなければ政府が誤った信号を与えたということだ。
しかし文大統領だけがこれとは全く違う言行を見せている。K防疫に対する自画自賛は防疫当局の誤った判断の口実となり、その結果、生計が脅かされる犠牲を強要された国民は茫然自失したが、大統領は平然と例外的な特権を享受してきた。国民には体調が悪い親にも会うなと言いながら、本人は参謀陣の送別会は公的な集まりだとして人員制限を軽視する。
また、1月の記者会見では「防疫は非常にうまくいっているので質問はないのか」と自慢しながら、第4波の現実化した後の12日の首都圏特別防疫点検会議では野党の呉世勲(オ・セフン)ソウル市長らを狙って「我々が防疫に失敗すればこの席にいる全員に責任がある」と責任を転嫁する。「非寛容原則」を云々し、原則がない社会的距離については謝罪せず、怒号も忘れなかった。
国民全員が苦痛を受ける時、大統領は日常の不便さえ感じないが、防疫が失敗すれば国民を罰する国。もう国民の忍耐心が限界に近づいている。毎晩、蚊を相手にするだけでも大変なのだが。
アン・ヘリ/論説委員
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