「この戦争は何のためのものなのか」。古いヘリコプターに乗って不安げにヒンズークシ山脈を越えながら心の底からこの質問を投げかけ続けました。ソウルで荷物をまとめた時から抱えていた疑問です。20年前のアフガニスタン内戦取材時の記憶です。
米国はタリバン政権がアルカイダを支援し、アフガンが彼らの背後基地になったとして反タリバン勢力である北部同盟という武装組織を支援しました。2001年の9・11テロに対する一種の報復であり、テロの危険に対する先制的対応でした。米国をはじめとする西側世界から武器と資金を支援された北部同盟は攻撃開始から1カ月ほどで首都カブールを占領し、タリバンは南部に逃走しゲリラ戦を行いました。
北部同盟のカブール占領直後である11月23日に現地入りして取材を始めると、アフガンの普通の人たちにはこの戦争に意味があったのだろうと考え始めました。理髪店ごとに大変なにぎわいを見せていました。あごひげをそりに来た人たちが列を作りました。ひげそりを終えた人たちはひげを伸ばすことを強制したタリバン政権をののしりました。保健専門学校ではブルカを着用しないアフガン女性たちの素顔を初めて見ました。彼女らは学校に通えるようになったことに歓呼しました。タリバンは女性は教育を受ける必要がないと宣言して女子学生の登校を禁じました。放送局では設備点検が進んでいました。タリバンはテレビ放送を禁止していました。こうして自由の風が吹きました。
それでもこの国の将来が明るく見えたりはしなかったです。カブール到着6日後の29日に臨時政府庁舎に行き、臨時外相とのインタビューを試みました。担当職員はすでに10社以上が申請しているとし、2日後に来るよう言いました。来いと言われた日に再訪したところ、また同じ話をしました。私と同行して通訳した現地スタッフが私のそでをつかんで静かなところに連れて行き、100ドルだけくれと言いました。お金を渡し、彼が担当職員のオフィスに行ってきました。2時間ほどで外相とのインタビューが行われました。腐敗はあちこちで目撃されました。逃走したタリバン高官が住んでいた家は豪勢でした。土窟や穴ぐらに住む市民は多くいました。
「10日間ほどカブールに滞在してアフガニスタンの普通の人たちの声に耳を傾けた。彼らはひげが短いからと人々をむちで打ったタリバン政権が消えたことは喜んだが、9年前の勢力争いで都市を廃虚にした北部同盟の軍閥が再び権力を握ったことはありがたがらなかった。彼らは軍閥と周辺国の欲、宗教で包装された強圧統治、そして列強の独断・独善のすべてを恐れた。だが現実的にそのくびきから抜け出すのは容易でないという事実を沈黙で認めていた。米国のアフガニスタン戦争作戦名「不朽の自由」や「無限正義」は彼らに何の意味もなかった。悲劇は続くだろう」。カブールを離れる日に中央日報に書いた「取材日記」の一部です。
悲しい予感は間違っていなかったです。国際的再建支援は底の抜けた瓶に水を注ぐようにどこかにすべて漏れていき、タリバン掃討も米軍にだけ頼って失敗しました。20年が流れたが最貧国状態そのままです。国民所得、乳幼児死亡率、腐敗指数いずれも世界最下位圏です。結局米国も元手をはたいて出て行くことにしました。大使館の警備兵力数百人だけ残った状態です。彼らもまもなく帰国します。もうタリバンのアフガン掌握は時間の問題です。
アフガンと比較してみれば韓国戦争(朝鮮戦争)後の韓国の歴史は奇跡です。屈曲はあったし、依然として多くの課題を抱えているが、前後に例を見ない発展です。古いイデオロギーにとらわれた光復会長と大統領選挙候補がその旅程をいくらけなそうとしても普通の人たちの暮らしが比較できないほど良くなったという事実は変わりません。国民の献身、犠牲、努力が作った結果です。自虐のでたらめな歴史観を広めないでください。
イ・サンオン/論説委員
米国はタリバン政権がアルカイダを支援し、アフガンが彼らの背後基地になったとして反タリバン勢力である北部同盟という武装組織を支援しました。2001年の9・11テロに対する一種の報復であり、テロの危険に対する先制的対応でした。米国をはじめとする西側世界から武器と資金を支援された北部同盟は攻撃開始から1カ月ほどで首都カブールを占領し、タリバンは南部に逃走しゲリラ戦を行いました。
北部同盟のカブール占領直後である11月23日に現地入りして取材を始めると、アフガンの普通の人たちにはこの戦争に意味があったのだろうと考え始めました。理髪店ごとに大変なにぎわいを見せていました。あごひげをそりに来た人たちが列を作りました。ひげそりを終えた人たちはひげを伸ばすことを強制したタリバン政権をののしりました。保健専門学校ではブルカを着用しないアフガン女性たちの素顔を初めて見ました。彼女らは学校に通えるようになったことに歓呼しました。タリバンは女性は教育を受ける必要がないと宣言して女子学生の登校を禁じました。放送局では設備点検が進んでいました。タリバンはテレビ放送を禁止していました。こうして自由の風が吹きました。
それでもこの国の将来が明るく見えたりはしなかったです。カブール到着6日後の29日に臨時政府庁舎に行き、臨時外相とのインタビューを試みました。担当職員はすでに10社以上が申請しているとし、2日後に来るよう言いました。来いと言われた日に再訪したところ、また同じ話をしました。私と同行して通訳した現地スタッフが私のそでをつかんで静かなところに連れて行き、100ドルだけくれと言いました。お金を渡し、彼が担当職員のオフィスに行ってきました。2時間ほどで外相とのインタビューが行われました。腐敗はあちこちで目撃されました。逃走したタリバン高官が住んでいた家は豪勢でした。土窟や穴ぐらに住む市民は多くいました。
「10日間ほどカブールに滞在してアフガニスタンの普通の人たちの声に耳を傾けた。彼らはひげが短いからと人々をむちで打ったタリバン政権が消えたことは喜んだが、9年前の勢力争いで都市を廃虚にした北部同盟の軍閥が再び権力を握ったことはありがたがらなかった。彼らは軍閥と周辺国の欲、宗教で包装された強圧統治、そして列強の独断・独善のすべてを恐れた。だが現実的にそのくびきから抜け出すのは容易でないという事実を沈黙で認めていた。米国のアフガニスタン戦争作戦名「不朽の自由」や「無限正義」は彼らに何の意味もなかった。悲劇は続くだろう」。カブールを離れる日に中央日報に書いた「取材日記」の一部です。
悲しい予感は間違っていなかったです。国際的再建支援は底の抜けた瓶に水を注ぐようにどこかにすべて漏れていき、タリバン掃討も米軍にだけ頼って失敗しました。20年が流れたが最貧国状態そのままです。国民所得、乳幼児死亡率、腐敗指数いずれも世界最下位圏です。結局米国も元手をはたいて出て行くことにしました。大使館の警備兵力数百人だけ残った状態です。彼らもまもなく帰国します。もうタリバンのアフガン掌握は時間の問題です。
アフガンと比較してみれば韓国戦争(朝鮮戦争)後の韓国の歴史は奇跡です。屈曲はあったし、依然として多くの課題を抱えているが、前後に例を見ない発展です。古いイデオロギーにとらわれた光復会長と大統領選挙候補がその旅程をいくらけなそうとしても普通の人たちの暮らしが比較できないほど良くなったという事実は変わりません。国民の献身、犠牲、努力が作った結果です。自虐のでたらめな歴史観を広めないでください。
イ・サンオン/論説委員
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