先日死去した韓国戦争(朝鮮戦争)の英雄であり崔在亨(チェ・ジェヒョン)元監査院長の祖先チェ・ヨンソプ予備役海軍大佐が5月に出した自叙伝(『海を抱いた白頭山』)にはこのような内容がある。
1950年7月に北朝鮮軍に衆寡不敵で劣勢となった韓国軍が麗水(ヨス)から撤収する時だった。西南地区戦闘司令官のイ・ウンジュン少将が戦闘艦「白頭山(ペクドゥサン)」がある埠頭に到着すると、チェ・ヨンナム艦長が士官室に案内した。イ将軍は遠慮して椅子だけ出してほしいと伝えた。日が沈んだ後もそうだった。「いま私の部下が命がけで敵と戦っている。安全な船内で気楽に眠ることはできない。私は今夜ここで過ごす」。「白頭山」の甲板士官だったチェ大佐は「イ将軍は日本刀を真っ直ぐに立てて、両手で強く握りながら、埠頭で夜を明かした」と書いた。
麗水から撤収後、イ将軍は「白頭山」の将校一人一人に感謝のあいさつをした後、馬山(マサン)に送ってほしいと伝えたという。洛東江(ナクトンガン)戦線だった。チェ艦長には「感謝の表示として大切に保管してきた拳銃を受け取ってほしい」と話した。拳銃はイ将軍が1914年に日本陸軍士官学校を卒業する時に日本の天皇から受けたものだった。
日本刀と天皇から受けた拳銃を持った日本陸軍士官学校出身。まさに「親日」の証明となり得る。実際、イ将軍は2000年代、親日反民族行為者に分類された。しかしチェ大佐の記述には全く否定的な語感がなかった。むしろ「悪条件の中で戦わなければならない将軍の悲痛な思いと部下を考える指揮官の切ない心情が夜空の月の光のようにもの悲しく照らした」(日本刀)、「2人は戦場で戦友愛を分かち合い、反撃の勝利を近いながら別れた」(拳銃)と書いた。
当代の米国外交官だったグレゴリー・ヘンダーソンの観察が役に立つかもしれない。彼は軍人にとって拳銃・日本刀は実力(武勲)を表す装置だったとし、「独立運動に参加して愛国的な活動をしたことほど、その人の位置を評価するのに役に立った」と書いた。また「多くの『対日協力者』はたとえ日本に協力したが、日本陣営内で隠した太極旗(韓国の国旗)を手に持っていたと考えた」とした。
よく理解できないならば、呂運亨(ヨ・ウンヒョン)先生の選択を考えるのもよいだろう。彼は自身が主導した社会主義独立運動団体(建国同盟)に関連した満州軍出身者に1946年、「北に行って軍隊創設の過程に参加すべき」と勧めた。「戦争が勃発するとしても建国同盟系列の将校がいくつか師団を掌握していれば、戦争を防止することができるという趣旨」だったという。実際、満州軍出身の8人(2人は間島特設隊)が応じた。いわゆる「呂運亨グループ」だ。民主化勢力が高く評価する呂運亨が日本軍出身者(いわゆる「親日派」)に救国の使命を任せたことをどう見るべきか。
解放と政府樹立の空間がどれほど複雑微妙に展開したかを見せる事例だ。実際、考えてみると日帝清算をしたという北朝鮮も日本軍出身者を起用した。相当な「粛軍」作業が行われた後も北朝鮮空軍の主力は日本軍出身者だった。さらに「北朝鮮は『反革命勢力』を排除し、北朝鮮地域を完全に親ソ・親共陣営に転換させた。この過程で北朝鮮の『反革命勢力』は38度線を越えて反ソ・反共勢力に転換され、韓国の反ソ・反共勢力と結合することで韓半島(朝鮮半島)の反ソ・反共陣営を強化させた」(『朝鮮人民軍』)という点もある。
崔章集(チェ・ジャンジブ)高麗大名誉教授が最近、「親日か反日かという問題と、共産主義に反対するか共産主義に賛成してその体制下で生きることを望むかという完全に違う、さらに複合的で重要な選択が我々を強制する状況に置かれた」と述べた理由だろう。
したがって「親日勢力が米占領軍と共に支配体制をそのまま維持した」という進歩の一部の認識は、あまりにも単純で安易であるうえ、意図まで勘案すると悪いことだ。
コ・ジョンエ/論説委員
1950年7月に北朝鮮軍に衆寡不敵で劣勢となった韓国軍が麗水(ヨス)から撤収する時だった。西南地区戦闘司令官のイ・ウンジュン少将が戦闘艦「白頭山(ペクドゥサン)」がある埠頭に到着すると、チェ・ヨンナム艦長が士官室に案内した。イ将軍は遠慮して椅子だけ出してほしいと伝えた。日が沈んだ後もそうだった。「いま私の部下が命がけで敵と戦っている。安全な船内で気楽に眠ることはできない。私は今夜ここで過ごす」。「白頭山」の甲板士官だったチェ大佐は「イ将軍は日本刀を真っ直ぐに立てて、両手で強く握りながら、埠頭で夜を明かした」と書いた。
麗水から撤収後、イ将軍は「白頭山」の将校一人一人に感謝のあいさつをした後、馬山(マサン)に送ってほしいと伝えたという。洛東江(ナクトンガン)戦線だった。チェ艦長には「感謝の表示として大切に保管してきた拳銃を受け取ってほしい」と話した。拳銃はイ将軍が1914年に日本陸軍士官学校を卒業する時に日本の天皇から受けたものだった。
日本刀と天皇から受けた拳銃を持った日本陸軍士官学校出身。まさに「親日」の証明となり得る。実際、イ将軍は2000年代、親日反民族行為者に分類された。しかしチェ大佐の記述には全く否定的な語感がなかった。むしろ「悪条件の中で戦わなければならない将軍の悲痛な思いと部下を考える指揮官の切ない心情が夜空の月の光のようにもの悲しく照らした」(日本刀)、「2人は戦場で戦友愛を分かち合い、反撃の勝利を近いながら別れた」(拳銃)と書いた。
当代の米国外交官だったグレゴリー・ヘンダーソンの観察が役に立つかもしれない。彼は軍人にとって拳銃・日本刀は実力(武勲)を表す装置だったとし、「独立運動に参加して愛国的な活動をしたことほど、その人の位置を評価するのに役に立った」と書いた。また「多くの『対日協力者』はたとえ日本に協力したが、日本陣営内で隠した太極旗(韓国の国旗)を手に持っていたと考えた」とした。
よく理解できないならば、呂運亨(ヨ・ウンヒョン)先生の選択を考えるのもよいだろう。彼は自身が主導した社会主義独立運動団体(建国同盟)に関連した満州軍出身者に1946年、「北に行って軍隊創設の過程に参加すべき」と勧めた。「戦争が勃発するとしても建国同盟系列の将校がいくつか師団を掌握していれば、戦争を防止することができるという趣旨」だったという。実際、満州軍出身の8人(2人は間島特設隊)が応じた。いわゆる「呂運亨グループ」だ。民主化勢力が高く評価する呂運亨が日本軍出身者(いわゆる「親日派」)に救国の使命を任せたことをどう見るべきか。
解放と政府樹立の空間がどれほど複雑微妙に展開したかを見せる事例だ。実際、考えてみると日帝清算をしたという北朝鮮も日本軍出身者を起用した。相当な「粛軍」作業が行われた後も北朝鮮空軍の主力は日本軍出身者だった。さらに「北朝鮮は『反革命勢力』を排除し、北朝鮮地域を完全に親ソ・親共陣営に転換させた。この過程で北朝鮮の『反革命勢力』は38度線を越えて反ソ・反共勢力に転換され、韓国の反ソ・反共勢力と結合することで韓半島(朝鮮半島)の反ソ・反共陣営を強化させた」(『朝鮮人民軍』)という点もある。
崔章集(チェ・ジャンジブ)高麗大名誉教授が最近、「親日か反日かという問題と、共産主義に反対するか共産主義に賛成してその体制下で生きることを望むかという完全に違う、さらに複合的で重要な選択が我々を強制する状況に置かれた」と述べた理由だろう。
したがって「親日勢力が米占領軍と共に支配体制をそのまま維持した」という進歩の一部の認識は、あまりにも単純で安易であるうえ、意図まで勘案すると悪いことだ。
コ・ジョンエ/論説委員
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