1886年8月9日、ロシア・ウラジオストク訪問を終えた清国の北洋艦隊所属の艦艇4隻が日本の長崎港に入港した。艦艇を修理するためだった。提督・丁汝昌が率いる艦隊には、清国が誇る大型巡洋艦「定遠」「鎮遠」も含まれていた。
ところが8月13日、長崎の街を見物していた清の水兵と日本の警察の間で衝突が起きた。日本側は酒に酔った清の水兵が暴力を振るったため逮捕したとし、清側はお互い話が通じず摩擦が生じたと記録した。15日にも清の水兵と日本の群衆、警察が衝突し、流血事態が発生した。日本人の中には武術家、浮浪者もいた。乱闘の末、清の水兵8人が死亡し、45人が負傷した。日本人も2人が死亡し、27人のけがをした。中国側は清の水兵が数的に劣勢だったうえ、非武装状態で日本人から刃物や棒などで攻撃され、被害がはるかに大きかったと分析した。
当時、清と日本の関係は緊張した状態だった。朝鮮で起きた壬午軍乱(1882)と甲申政変(1884)をきっかけにすでに衝突していたからだ。「長崎事件」と呼ばれるこの突発事態を処理するため、両国は数回の交渉をしたが、立場の違いは埋まらなかった。翌年2月、関与者をそれぞれの法律に基づいて処理し、死傷者に慰労金を支払うことで合意した。
◆フランスの専門家を招いて戦力を高めた日本
とにかく北洋艦隊の訪問をきっかけに日本は大きな衝撃を受けた。何よりも当時のアジア最強戦艦だった「定遠」と「鎮遠」を目の前で見たからだ。1882年にドイツで建造された戦艦2隻は共に排水量7220トンの甲鉄艦で、30.5センチの強力な主砲4門を装着していた。当時、日本も海軍力の増強を推進していたが、両戦艦の規模と火力に対抗するほどの艦艇はまだ保有していなかった。「定遠」と「鎮遠」に対する恐怖や妬みが強まるしかなかった。こうした雰囲気の中で「長崎事件」が発生したのだ。清の立場では「定遠」と「鎮遠」の前で臆する日本人の姿を眺めるのは気味がいいものだった。「遠くの蛮夷を平定し(定遠)」「鎮圧する(鎮遠)」という名前にふさわしく、自国の海軍力を誇示できたからだ。しかし清の自惚れは長くは続かなかった。長崎事件とは比較にならない悲劇と屈辱が「定遠」「鎮遠」を待っていたからだ。
長崎事件が発生する前から日本は「定遠」と「鎮遠」に対抗する戦艦を確保するために腐心した。1885年8月、日本政府はフランス人のルイ・エミール・ベルタン(1840-1924)を海軍の顧問として招聘することを決めた。ベルタンは当時のフランス最高の戦艦専門家だった。招聘の条件は破格的だった。普通の招聘外国人の給与の20倍を支払い、海軍省顧問、海軍工廠総監督、艦艇本部特任少将などの肩書も与えた。
その代わり日本政府は「定遠」と「鎮遠」に対抗できる戦艦の設計と建造を要求した。興奮したベルタンは1886年2月、家族を連れて日本に入国した。ベルタンは日本に4年間滞在しながら「松島」「厳島」「橋立」などの戦艦を設計した。「松島」と「厳島」は1892年に、「橋立」は1894年に就役した。日本海軍の主力艦に浮上した3隻はすべて4200トン規模で、「定遠」と「鎮遠」に比べて規模は小さかったが、火力ははるかに強力だった。「定遠」と「鎮遠」の30.5センチ主砲より大きい32センチの主砲を搭載し、12センチ速射砲を12門ずつ装着した。
ベルタンの招聘、北洋艦隊の入港、長崎事件の発生で、日本の海軍力増強熱気はさらに高まった。1887年1月に明治天皇は戦艦の建造に内帑金30万円を出し、建艦費用を調達するために発行した公債の販売にも弾みがついた。こうした雰囲気で1885年に立案された海軍拡張10カ年計画は1892年にすでに達成した。
日本がこのように「定遠」「鎮遠」打倒を叫んでいた1894年7月、日清戦争が勃発した。そして同年9月17月、朝鮮に陸軍兵力を輸送し、旅順に戻ろうとしていた北洋艦隊と日本艦隊が鴨緑江(アムノッカン)付近で対峙して西海(ソヘ、黄海)海戦が始まった。北洋艦隊の総トン数は3万5000トン、日本艦隊は4万トンだった。20センチ以上の大口径砲は清軍が優勢だったが、12センチ以上の中口径の速射砲は日本側が絶対的に優勢だった。戦艦の平均速度も日本の方が速かった。「定遠」「鎮遠」の主砲は威力があったが、1時間あたり2発しか発射できないという弱点があった。
結果は日本の勝利だった。北洋艦隊は5隻の戦艦が沈没または大破した。旗艦の「定遠」と「鎮遠」は数百発の弾丸を浴びたが、沈没は免れた。一方、日本側には沈没した艦艇はなく、旗艦の「松島」が「定遠」の砲弾を受け、100人ほどの死傷者が出る被害があった。
【コラム】日清戦争で惨敗した中国 「海軍力増強」に総力戦(2)
ところが8月13日、長崎の街を見物していた清の水兵と日本の警察の間で衝突が起きた。日本側は酒に酔った清の水兵が暴力を振るったため逮捕したとし、清側はお互い話が通じず摩擦が生じたと記録した。15日にも清の水兵と日本の群衆、警察が衝突し、流血事態が発生した。日本人の中には武術家、浮浪者もいた。乱闘の末、清の水兵8人が死亡し、45人が負傷した。日本人も2人が死亡し、27人のけがをした。中国側は清の水兵が数的に劣勢だったうえ、非武装状態で日本人から刃物や棒などで攻撃され、被害がはるかに大きかったと分析した。
当時、清と日本の関係は緊張した状態だった。朝鮮で起きた壬午軍乱(1882)と甲申政変(1884)をきっかけにすでに衝突していたからだ。「長崎事件」と呼ばれるこの突発事態を処理するため、両国は数回の交渉をしたが、立場の違いは埋まらなかった。翌年2月、関与者をそれぞれの法律に基づいて処理し、死傷者に慰労金を支払うことで合意した。
◆フランスの専門家を招いて戦力を高めた日本
とにかく北洋艦隊の訪問をきっかけに日本は大きな衝撃を受けた。何よりも当時のアジア最強戦艦だった「定遠」と「鎮遠」を目の前で見たからだ。1882年にドイツで建造された戦艦2隻は共に排水量7220トンの甲鉄艦で、30.5センチの強力な主砲4門を装着していた。当時、日本も海軍力の増強を推進していたが、両戦艦の規模と火力に対抗するほどの艦艇はまだ保有していなかった。「定遠」と「鎮遠」に対する恐怖や妬みが強まるしかなかった。こうした雰囲気の中で「長崎事件」が発生したのだ。清の立場では「定遠」と「鎮遠」の前で臆する日本人の姿を眺めるのは気味がいいものだった。「遠くの蛮夷を平定し(定遠)」「鎮圧する(鎮遠)」という名前にふさわしく、自国の海軍力を誇示できたからだ。しかし清の自惚れは長くは続かなかった。長崎事件とは比較にならない悲劇と屈辱が「定遠」「鎮遠」を待っていたからだ。
長崎事件が発生する前から日本は「定遠」と「鎮遠」に対抗する戦艦を確保するために腐心した。1885年8月、日本政府はフランス人のルイ・エミール・ベルタン(1840-1924)を海軍の顧問として招聘することを決めた。ベルタンは当時のフランス最高の戦艦専門家だった。招聘の条件は破格的だった。普通の招聘外国人の給与の20倍を支払い、海軍省顧問、海軍工廠総監督、艦艇本部特任少将などの肩書も与えた。
その代わり日本政府は「定遠」と「鎮遠」に対抗できる戦艦の設計と建造を要求した。興奮したベルタンは1886年2月、家族を連れて日本に入国した。ベルタンは日本に4年間滞在しながら「松島」「厳島」「橋立」などの戦艦を設計した。「松島」と「厳島」は1892年に、「橋立」は1894年に就役した。日本海軍の主力艦に浮上した3隻はすべて4200トン規模で、「定遠」と「鎮遠」に比べて規模は小さかったが、火力ははるかに強力だった。「定遠」と「鎮遠」の30.5センチ主砲より大きい32センチの主砲を搭載し、12センチ速射砲を12門ずつ装着した。
ベルタンの招聘、北洋艦隊の入港、長崎事件の発生で、日本の海軍力増強熱気はさらに高まった。1887年1月に明治天皇は戦艦の建造に内帑金30万円を出し、建艦費用を調達するために発行した公債の販売にも弾みがついた。こうした雰囲気で1885年に立案された海軍拡張10カ年計画は1892年にすでに達成した。
日本がこのように「定遠」「鎮遠」打倒を叫んでいた1894年7月、日清戦争が勃発した。そして同年9月17月、朝鮮に陸軍兵力を輸送し、旅順に戻ろうとしていた北洋艦隊と日本艦隊が鴨緑江(アムノッカン)付近で対峙して西海(ソヘ、黄海)海戦が始まった。北洋艦隊の総トン数は3万5000トン、日本艦隊は4万トンだった。20センチ以上の大口径砲は清軍が優勢だったが、12センチ以上の中口径の速射砲は日本側が絶対的に優勢だった。戦艦の平均速度も日本の方が速かった。「定遠」「鎮遠」の主砲は威力があったが、1時間あたり2発しか発射できないという弱点があった。
結果は日本の勝利だった。北洋艦隊は5隻の戦艦が沈没または大破した。旗艦の「定遠」と「鎮遠」は数百発の弾丸を浴びたが、沈没は免れた。一方、日本側には沈没した艦艇はなく、旗艦の「松島」が「定遠」の砲弾を受け、100人ほどの死傷者が出る被害があった。
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