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300年前の朝鮮王朝を分裂させた義理論…2017年韓国に再び切り出した政界(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

父王である英祖との対立の末に悲劇的に亡くなった思悼世子の話を題材にした映画『思悼』の一場面。(写真=中央フォト)

「誰であれ君の親父(思悼世子)を王として追崇するなら、この国従事の逆賊だ。これが君と私の義理だ」〔英祖(ヨンジョ)〕

「肝に銘じます」〔正祖(チョンジョ)〕

「今日から君の親父の名前を口にするな。痛恨は痛恨で、義理は義理だ」(営祖)


思悼世子の悲劇的な死を扱った映画『思悼(サド)』に出る台詞だ。映画『思悼』には、とりわけ「義理」という言葉が多く登場する。この対話は臨終を控えた英祖が王位を継続する世孫・正祖に頼む場面だ。英・正祖時代は言葉通りに「義理で生き、義理で死ぬ」時代だった。「義理」は300年前の政治を理解するキーワードだ。

(1)思悼世子の悲劇を呼んだ辛壬義理=19代王である粛宗が死亡したごろ、1700年代の朝鮮朝廷は跡継ぎ(景宗)を支持する少論(ソロン)と弟であるヨニングン(英祖)を支持する老論(ノロン)に分かれた。

辛任義理とは、1721年(新丑年)~1722年(壬寅年)に景宗の代わりにヨニングンを支持して困難を強いられた老論側の義理を呼ぶ言葉だ。老論は景宗にヨニングンを王位継承者である王世弟として冊封し、代理聴政まで任せなければならないと主張したが、領議政の金昌集(キム・チャンジプ)など数百人が死んで島流しされた。

そのおかげで英祖が即位すると、老論の世界になった。彼らは辛任義理を積極的に前面に出し、長期間にわたって「与党」の座を掌握した。

だが、英祖が思悼世子に代理清浄を任せながら状況が変わった。血気盛んな跡継ぎは老論の特殊な既得権を認めず、両側は尖鋭な対立をした。思悼世子の本意とは関係なく、辛任義理に対する不正が父の英祖の王位正統性に対する挑戦のように受け止められ、父王が跡継ぎを米びつに閉じ込めて死なせた朝鮮王朝最大の悲劇を生んだ。

英祖は思悼世子の悲劇がもたらす禍根を除去しようと思った。思悼世子を批判した臣下の行動を「大義」に評価し、これを1762年「壬午義理」と規定した。映画『思悼』のように世孫である正祖にも今後、壬午年の悲劇については口にしないように呼びかけた。

「壬午年に大義を明らかにしなかったなら、倫理がその時から廃止されただろう。そうでなかったら、どのように今日私がいただろうし、世孫にとってもどのように今日があっただろうか」(『英祖実録』)

2つの「義理」は英祖時代の「ドクトリン」だった。王位を受け継ぐためには辛任義理と壬午義理を受け入れなければならなかった。



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