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浮石寺観音菩薩像、略奪されたとしても別の「略奪」で返してもらうのが正当なのか(2)

ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版

北関大捷碑の歓送告由祭が2006年2月20日、ソウル景福宮(キョンボックン)内にある国立古宮博物館の庭で開かれ、参席者が伝統祭礼服を着て北朝鮮に移送される北関大捷碑に向かって祭礼を行っている。

裁判所は、高麗末に倭寇が瑞山地域に頻繁に侵入している記録があり、現在の仏像から焼け跡のほか宝冠・台座の欠損がみられるうえ、この仏像に対して日本の一部学者も略奪品だと主張している点などを引用しながら「仏像が正常ルートで移転されたと見るのは難しいと考えられる」と判断した。要するに、倭寇の侵略が頻繁にあった高麗末に略奪されたに違いないという推定を根拠にこのような判決を下したのだ。

裁判所が引用した資料の中には、九州大学の菊竹淳一名誉教授が1978年に出版した「対馬の美術」という報告書がある。この報告書は、仏像を倭寇による略奪品と見なしつつ、これを奉安した観音寺もまた倭寇集団が建設した寺とみている。だが、仏像の持ち出し経緯や現在の状態などを調査した韓国文化財庁は「正常な文化交流や外交交渉を通じて伝来した可能性は少ないと判断される」としつつも、略奪に関する直接的な証拠はないと明らかにしている。裁判所の判決や浮石寺主張を100%受け入れたとしても、略奪時期は高麗末、言い換えれば14世紀だ。今から600年も遡る中世に起きたことを今の法律的ものさしで裁けるのかといった問題も残る。

高さ59.5センチ、重さ38.6キロのこの菩薩像は、長崎県の有形文化財(1973年5月)に指定されている。台座と光背はなくなり、宝冠と持物(手に持った物)もなく、保存状態はあまり良くない方だ。鍍金はごく一部のみで確認される。菩薩像内部から発見された腹蔵遺物のうち、造成来歴を紙に墨で書きつけた結縁文が1951年に偶然発見された。これを通じて製作時期や奉安寺院、そして造成発願者などが分かり、高麗時代の彫刻史研究の貴重な資料に挙げられる。これによって、この菩薩像が1330年瑞山浮石寺で製作された事実が判明した。


問題は、これがいつ、どのような経緯で日本に持ち出されたのかという点だ。高麗末、瑞山一帯にしばしば倭寇が侵略したという『高麗史』の記録と1526年ごろに観音寺にこれを奉安したという寺院内部の記録に基づき、1526年以前に日本に持ち込まれたことが分かるのみだ。

1526年以降、500年余りの間、観音寺に安置されてきたこの菩薩像は、同じく対馬の海神神社に所蔵されていた統一新羅時代の金銅如来立像とともに、2012年10月ごろ、韓国内の盗掘団によって略奪されて韓国に持ち込まれた。窃盗犯が盗んできた「贓物」ということになる。大田警察庁広域捜査隊と文化財庁事犯取締班による調査の結果、窃盗犯総責者Aの主導によって行われたことが明るみになった。Aは窃盗団にそれぞれ役割を分担した後、犯行現場を事前に下調べしていた。彼らは窃盗品を対馬からすぐに韓国には持ち込まず、迂回する方法を選んだ。まず福岡港に運んだ後に改めて釜山(プサン)港を通じて持ち込んだ。福岡港は文化財の検査を行わないという点を悪用したのだ。

だが、盗み出した文化財を韓国内で売らなければならなかったため自然に古美術界でうわさが立ち、これがきっかけとなって、警察と文化財庁は2013年1月23日、慶尚南道馬山(キョンサンナムド・マサン)のある冷凍倉庫から仏像2点を押収して窃盗団一味の大部分を検挙した。日本警察も国際刑事警察機構(インターポール)を通じて韓国警察に捜査協力を要請してきた。このような過程を経て銅造如来立像は2015年7月に日本に戻された。

だが、今回問題になった観音菩薩像は浮石寺が所有権を主張したことで「返還」にブレーキがかかった。裁判所が1審で浮石寺側についたものの、韓日間の外交問題に飛び火している。慰安婦や少女像問題などで、そうでなくても双方への感情が悪化しているところにつけて、両国間の民族感情を刺激するまでに至った。(中央SUNDAY第518号)



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