何でも速いものこそ優遇される時代だから、今は若干の表記法間違いはある程度寛容に受け入れられる雰囲気だ。一部の報道機関が「記事の中の表記法間違い」シリーズまで連載するほど、その数が多くなって別の見方をすれば日常化されている。インターネットを検索すれば「記事の中の間違った表記法00個」などのリストがずらっと出てくる。迅速性だけでなく正確性が命である記事でさえも「表記法破壊者」の仲間入りをしたようで苦々しく思う。日常会話はどうだろうか。カカオトークなどでしばしば見受けられる表記法間違いは「葬礼(将来)の希望」「働けお辞儀しろ(ああしろ、こうしろ)」「ベールに積まれる(包まれる)」など、数も多くて種類も多様だ。
英語新聞の記者時代に、韓国語が世界公用語になって米国でも韓国語新聞が発刊される日を想像してみたことがある。米国人が韓国語で書いてきた記事を手直ししたらどんな気持ちだろうかと気になったが、さして容易なことではないようだ。私たちが英語・中国語学習に必死であるように、母国語も持続的に磨かなければならない。村上春樹はエッセイ集『やがて哀しき外国語』で「日本語で小説を書きながらもう一度日本語を相対化すること、日本人でありながら もう一度日本人性を相対化することが大事な作業になってくるのではないかと思っている 。」韓国語も同じだ。
英語新聞の記者時代に、韓国語が世界公用語になって米国でも韓国語新聞が発刊される日を想像してみたことがある。米国人が韓国語で書いてきた記事を手直ししたらどんな気持ちだろうかと気になったが、さして容易なことではないようだ。私たちが英語・中国語学習に必死であるように、母国語も持続的に磨かなければならない。村上春樹はエッセイ集『やがて哀しき外国語』で「日本語で小説を書きながらもう一度日本語を相対化すること、日本人でありながら もう一度日本人性を相対化することが大事な作業になってくるのではないかと思っている 。」韓国語も同じだ。
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