1月に米国・欧州連合(EU)など西側の制裁解除措置で経済発展の歴史的な転機を迎えたイランはどんな姿なのだろうか。イランはどんな経済発展戦略を講じているのだろうか。これに関する話を聞くため先月21-25日、イランの首都テヘランと経済首都イスファハン、文化首都シーラーズを訪問し、現場を取材した。これを通じて1-3日に朴槿恵(パク・クネ)大統領が訪問するイランは韓国とどんな経済協力を期待しているのかも調べた。
イランでは依然としてイスラム革命の伝統が生きて呼吸していた。1979年のイスラム革命後に始まった神政政治の姿は相変わらずだった。街中はもちろん、政府や公共建物には必ず革命の主役であり初代最高指導者のホメイニ師(1902-89)とその後継者のハメネイ師(77)の写真が並んで掛けられていた。閣僚執務室、商工会議所会議室、大学研究室、空港など、どこへ行っても2人の指導者の写真は目に入った。一方、国民が選出したロウハニ大統領(2013年就任)の写真はあまり見ることができなかった。イスラム革命直後に制定された憲法でイスラム・シーア派最高聖職者が世俗権力を握るようにしたからだ。
すべての公式行事はイスラム教の聖典コーランの朗唱放送で始まった。韓国海洋水産開発院(KIMI、院長キム・ソングィ)が先月23、24日にイスファハンとテヘランで開催した「2016韓・イランビジネスフォーラム」も同じ順序に従った。
ところが一つ特異な点があった。どの都市に行ってもあちこちに若者の写真が印刷された垂れ幕や壁画があった。写真と形は村ごとに少しずつ違う。イスラム革命とイラン-イラク戦争(1980-88)で戦死した青年たちの写真だった。男女の区分はなかった。イラン-イラク戦争はイスラム革命が周辺国に波及しないようイラクのサダム・フセインがイランを侵攻しながら始まった戦争だ。米国の支援を受け、イランを牽制するために行った戦争という主張が支配的だ。したがって革命を守るために行ったこの戦争もイスラム革命の延長ということだ。いくつかの青年の写真は非常に大きく単独で掛かっていた。パルシ(イラン語)はもちろん、英語でも「国民の英雄(National Hero)」と書かれていた。武功を立てて戦死した軍人という説明だ。このためイランの都市はイスラム革命の跡で埋まっているようだった。 (中央SUNDAY第477号)
韓国の成長ノウハウ学び、中東の知識産業強国を夢見るイラン(2)
韓国の成長ノウハウ学び、中東の知識産業強国を夢見るイラン(3)
イランでは依然としてイスラム革命の伝統が生きて呼吸していた。1979年のイスラム革命後に始まった神政政治の姿は相変わらずだった。街中はもちろん、政府や公共建物には必ず革命の主役であり初代最高指導者のホメイニ師(1902-89)とその後継者のハメネイ師(77)の写真が並んで掛けられていた。閣僚執務室、商工会議所会議室、大学研究室、空港など、どこへ行っても2人の指導者の写真は目に入った。一方、国民が選出したロウハニ大統領(2013年就任)の写真はあまり見ることができなかった。イスラム革命直後に制定された憲法でイスラム・シーア派最高聖職者が世俗権力を握るようにしたからだ。
すべての公式行事はイスラム教の聖典コーランの朗唱放送で始まった。韓国海洋水産開発院(KIMI、院長キム・ソングィ)が先月23、24日にイスファハンとテヘランで開催した「2016韓・イランビジネスフォーラム」も同じ順序に従った。
ところが一つ特異な点があった。どの都市に行ってもあちこちに若者の写真が印刷された垂れ幕や壁画があった。写真と形は村ごとに少しずつ違う。イスラム革命とイラン-イラク戦争(1980-88)で戦死した青年たちの写真だった。男女の区分はなかった。イラン-イラク戦争はイスラム革命が周辺国に波及しないようイラクのサダム・フセインがイランを侵攻しながら始まった戦争だ。米国の支援を受け、イランを牽制するために行った戦争という主張が支配的だ。したがって革命を守るために行ったこの戦争もイスラム革命の延長ということだ。いくつかの青年の写真は非常に大きく単独で掛かっていた。パルシ(イラン語)はもちろん、英語でも「国民の英雄(National Hero)」と書かれていた。武功を立てて戦死した軍人という説明だ。このためイランの都市はイスラム革命の跡で埋まっているようだった。 (中央SUNDAY第477号)
韓国の成長ノウハウ学び、中東の知識産業強国を夢見るイラン(2)
韓国の成長ノウハウ学び、中東の知識産業強国を夢見るイラン(3)
この記事を読んで…