アルファ碁が5000年間続いてきた囲碁の原理を根本から書き換えつつある。核心は中央攻略だ。かつて人間が「厚み」と命名して神秘の領域として残してきた空間を、アルファ碁はついに精密な計算力で征服し遂げている。
第2局は第1局とは違った。対局中ずっと李世ドル(イ・セドル)九段は冷静かつ柔軟、時には果敢だった。特別に失着(誤った手を打つこと)もなかった。むしろアルファ碁が無理な方法と唐突な手を連発した。終盤の振り替わり(フリカワリ)部分は、大きな錯誤のようにみえた。だが、それは人間の目から見た時であった。人工知能の文法は違っていた。
中原(第5線から中央あたり)の運営力においてアルファ碁は優秀だった。序盤・中盤にアルファ碁が右辺に37を置いた時、観戦室はざわついた。イ・ヒソン九段は「本にはない手」と言った。アルファ碁が第5線で肩ツキ(相手の石の斜め上に打つ手)したためだ。
通常、囲碁において第3線は実利線、第4線は勢力線と呼ばれる。したがって相手方に第4線に「眼」を作るようにするのは一種のタブーだった。ところでアルファ碁が第5線に石を置きながら、むしろ李九段の第4線の眼づくりを許容した格好となった。ホン・ミンピョ九段は「研修生の時期にこのような手を駆使していたら直ちにひどい目にあっていた」と言った。
これまでの常識では説明できない手を、アルファ碁はその後も頻繁に駆使した。中盤形勢の不利を感知した李九段が上辺に果敢に攻め入った時はこれに対応せず無関心なように左辺を着手した。序盤・中盤の捨て石に近い石をあえて生かして中央側に引っ張っていった時はアマチュアのように見えた。
高段者のトーレードマークである後味(局面を決定せず余韻を残して後続手段を狙うこと)もなかった。時には自ら失敗を招くような手も躊躇しなかった。部分戦闘が広がるたびに勝戦譜を上げたのは常に李九段だったが、霧が晴れた後の局面を確認してみれば、バランスをとっていたりこまかいながらもアルファ碁の優勢だった。狐につままれたようだ。
これについてキム・ソンニョン九段は「アルファ碁は中央の厚みを計算することができるようだ」と評した。5000年の囲碁の歴史で変わらない不変の法則というのは、隅-辺-中央の順で石を置くという点だ。その順で「眼」を効率的に作ることができるためだ。
特に中央の部分はたいてい感覚だけに依存する上に、隅や辺が整理された後に置かれる一種の共同区域だった。だがアルファ碁は序盤から気兼ねなく中央の部分をしっかりと占めて、いつのまにか後半にはこれを徐々に眼へと脱皮させていった。どこにも使い道のない石はなかった。まるで初めから設計図を描いておいて1つずつパズルを合わせていくようだった。
パク・チムン韓国棋院副総裁は「プロ棋士も中央に置くことを躊躇するのは、自身が置く手がどれほどのものなのか、どんな価値なのか分からないためだ。それで漠然と『厚み』と表現するだけだ。だがアルファ碁はこれをすべて数値化できるように見えた」と話した。
囲碁だけの専有物のように存在してきた勢い・勝負の呼吸・判断力など人間の直観力を、アルファ碁が数学的能力で押し倒した瞬間だった。従って人間の囲碁では理解できない変則手が出てくるのだ。行馬(石の形)・布石・手順など人間が試行錯誤を経て積み重ねてきた囲碁の方式もやはり原点から再び検討するかもしれない。キム・ヒョジョン二段は「アルファ碁の囲碁は既存の観念では説明できない。当惑する」と話していた。
第2局は第1局とは違った。対局中ずっと李世ドル(イ・セドル)九段は冷静かつ柔軟、時には果敢だった。特別に失着(誤った手を打つこと)もなかった。むしろアルファ碁が無理な方法と唐突な手を連発した。終盤の振り替わり(フリカワリ)部分は、大きな錯誤のようにみえた。だが、それは人間の目から見た時であった。人工知能の文法は違っていた。
中原(第5線から中央あたり)の運営力においてアルファ碁は優秀だった。序盤・中盤にアルファ碁が右辺に37を置いた時、観戦室はざわついた。イ・ヒソン九段は「本にはない手」と言った。アルファ碁が第5線で肩ツキ(相手の石の斜め上に打つ手)したためだ。
通常、囲碁において第3線は実利線、第4線は勢力線と呼ばれる。したがって相手方に第4線に「眼」を作るようにするのは一種のタブーだった。ところでアルファ碁が第5線に石を置きながら、むしろ李九段の第4線の眼づくりを許容した格好となった。ホン・ミンピョ九段は「研修生の時期にこのような手を駆使していたら直ちにひどい目にあっていた」と言った。
これまでの常識では説明できない手を、アルファ碁はその後も頻繁に駆使した。中盤形勢の不利を感知した李九段が上辺に果敢に攻め入った時はこれに対応せず無関心なように左辺を着手した。序盤・中盤の捨て石に近い石をあえて生かして中央側に引っ張っていった時はアマチュアのように見えた。
高段者のトーレードマークである後味(局面を決定せず余韻を残して後続手段を狙うこと)もなかった。時には自ら失敗を招くような手も躊躇しなかった。部分戦闘が広がるたびに勝戦譜を上げたのは常に李九段だったが、霧が晴れた後の局面を確認してみれば、バランスをとっていたりこまかいながらもアルファ碁の優勢だった。狐につままれたようだ。
これについてキム・ソンニョン九段は「アルファ碁は中央の厚みを計算することができるようだ」と評した。5000年の囲碁の歴史で変わらない不変の法則というのは、隅-辺-中央の順で石を置くという点だ。その順で「眼」を効率的に作ることができるためだ。
特に中央の部分はたいてい感覚だけに依存する上に、隅や辺が整理された後に置かれる一種の共同区域だった。だがアルファ碁は序盤から気兼ねなく中央の部分をしっかりと占めて、いつのまにか後半にはこれを徐々に眼へと脱皮させていった。どこにも使い道のない石はなかった。まるで初めから設計図を描いておいて1つずつパズルを合わせていくようだった。
パク・チムン韓国棋院副総裁は「プロ棋士も中央に置くことを躊躇するのは、自身が置く手がどれほどのものなのか、どんな価値なのか分からないためだ。それで漠然と『厚み』と表現するだけだ。だがアルファ碁はこれをすべて数値化できるように見えた」と話した。
囲碁だけの専有物のように存在してきた勢い・勝負の呼吸・判断力など人間の直観力を、アルファ碁が数学的能力で押し倒した瞬間だった。従って人間の囲碁では理解できない変則手が出てくるのだ。行馬(石の形)・布石・手順など人間が試行錯誤を経て積み重ねてきた囲碁の方式もやはり原点から再び検討するかもしれない。キム・ヒョジョン二段は「アルファ碁の囲碁は既存の観念では説明できない。当惑する」と話していた。
この記事を読んで…