1984年に全斗煥政権が中国が韓国を、日本が北朝鮮をクロス承認することを日本を通じて推進したことが30日、明らかになった。クロス承認とは外交的に相手を国家と認めることを意味する。外交部はこうした内容が含まれた外交文書およそ26万ページを公開した。政府は30年経過した外交文書を審議を通じて公開している。
公開された外交文書によると、クロス承認は「漢江(ハンガン)開発計画」という暗号名で計画された。当時の全斗煥大統領が84年9月に指示した事項だった。「日本が中共(中国)と対話がうまくいくので、日本が中共に韓国を承認させ、日本は北朝鮮を承認するよう交渉する」という内容だった。まず中国と日本がそれぞれ韓国と北朝鮮に接触した後、米国とソ連(ロシア)にも接触を拡大する構想だった。
外務部は全大統領の指示から2カ月後の11月に計画案を作った。少なくとも4、5年間、平和共存体制を確保するのが目的だった。86年のアジア競技大会の前後にクロス接触を本格化し、88年ソウルオリンピック(五輪)前後にクロス承認を達成するという目標も設定した。同年12月1日、政府は中曽根康弘首相にこの提案を伝え、中国指導部と接触することを要請した。同時に米国にも協調を求め、中国と間接接触しようという戦略を併行した。
しかし米国の反応はよくなかった。米側は韓国政府に「韓中直接貿易は時期尚早というのが中国の反応」という立場を伝えた。クロス接触の推進過程で韓国が先に日本に仲裁役を提案したことに対し、米国が不快感を抱いたりもした。
公開された外交文書には、84年に全大統領が日本を訪問した当時、裕仁天皇が天皇としては初めて過去の歴史に言及した背景も出ている。当時、政府は韓国首脳の最初の日本国賓訪問を準備するために「無窮花(ムグンファ)計画」を立てた。「無窮花計画対日交渉指針」という文書で天皇の過去の歴史に対する反省を「訪日の大前提」と明示した。また「国民感情に鑑み、最大限に強い言葉で反省を確かなものとしなければ、訪日への納得が得られない」とした。
日本は全大統領の訪日前日の9月5日、天皇の晩餐会のあいさつを韓国側に通知した。「今世紀の一時期において両国の間に不幸な過去が存在したことはまことに遺憾であり、繰り返されてはならない」だった。天皇は6日の晩餐会のあいさつでこの内容をそのまま述べた。
公開された外交文書によると、クロス承認は「漢江(ハンガン)開発計画」という暗号名で計画された。当時の全斗煥大統領が84年9月に指示した事項だった。「日本が中共(中国)と対話がうまくいくので、日本が中共に韓国を承認させ、日本は北朝鮮を承認するよう交渉する」という内容だった。まず中国と日本がそれぞれ韓国と北朝鮮に接触した後、米国とソ連(ロシア)にも接触を拡大する構想だった。
外務部は全大統領の指示から2カ月後の11月に計画案を作った。少なくとも4、5年間、平和共存体制を確保するのが目的だった。86年のアジア競技大会の前後にクロス接触を本格化し、88年ソウルオリンピック(五輪)前後にクロス承認を達成するという目標も設定した。同年12月1日、政府は中曽根康弘首相にこの提案を伝え、中国指導部と接触することを要請した。同時に米国にも協調を求め、中国と間接接触しようという戦略を併行した。
しかし米国の反応はよくなかった。米側は韓国政府に「韓中直接貿易は時期尚早というのが中国の反応」という立場を伝えた。クロス接触の推進過程で韓国が先に日本に仲裁役を提案したことに対し、米国が不快感を抱いたりもした。
公開された外交文書には、84年に全大統領が日本を訪問した当時、裕仁天皇が天皇としては初めて過去の歴史に言及した背景も出ている。当時、政府は韓国首脳の最初の日本国賓訪問を準備するために「無窮花(ムグンファ)計画」を立てた。「無窮花計画対日交渉指針」という文書で天皇の過去の歴史に対する反省を「訪日の大前提」と明示した。また「国民感情に鑑み、最大限に強い言葉で反省を確かなものとしなければ、訪日への納得が得られない」とした。
日本は全大統領の訪日前日の9月5日、天皇の晩餐会のあいさつを韓国側に通知した。「今世紀の一時期において両国の間に不幸な過去が存在したことはまことに遺憾であり、繰り返されてはならない」だった。天皇は6日の晩餐会のあいさつでこの内容をそのまま述べた。
この記事を読んで…