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【その時の今日】金日成政権、朴憲永に「米スパイ」死刑判決後、銃殺

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版



1955年12月15日、北朝鮮の最高裁判所は特別裁判を通じて朴憲永(パク・ホンヨン)に全財産没収と死刑を言い渡した。

裁判の公式の名称は「米帝国主義に雇われたスパイ朴憲永、李承燁(リ・スンヨプ)徒党による朝鮮民主主義人民共和国政権転覆への陰謀とスパイ事件」。朴憲永を除いた南朝鮮労働党系列の12人は53年7月30日に起訴され、7日後の8月6日に判決が下されたのに対し、朴憲永は2年が過ぎた55年12月3日に起訴された。2人を除いた全員に死刑判決が下され、朴憲永は56年7月、銃殺刑に処されたものとされている。


判決によると、25年の1回目の朝鮮共産党事件時、日本の警察に秘密組織をすべて自供し、46年9月のゼネストと同年10月の大邱(テグ)暴動事件などを背後で操縦、米軍政への反対活動を指示した朴憲永が、実際にはホッジ中将の指示を受けて共産党を親米の方向に導いただけでなく、党組織を米軍政と大韓民国政府に露出し、いわゆる「革命力量」を破壊したということだ。

また、46年に北朝鮮へ渡った後は李承燁と李康国(イ・カングク)を通じて米軍政に北朝鮮の資料を提供し、韓国戦争(1950~53)期間中の52年9月、武装クーデターで政権転覆を図ったとしている。▽延喜(ヨンヒ)専門学校長のアンダーウッドとの関係▽45年9月9日の米軍の上陸を控えて大韓民国の臨時政府に備えるために組織した朝鮮人民共和国で李承晩(イ・スンマン)を大統領にしたという点--などが判決文に示されたのも注目される(裁判から抜粋した文は金南植の「南労党研究」に収録)。

45年の時点には秘密組織ではなかった朝鮮共産党の責任者として米軍政の責任者に会った事実が、すべてスパイ活動と見なされているという点は、同事件が政治的事件だったことを裏付ける。しかし、仁川(インチョン)上陸作戦(韓国戦争中の50年9月15日に国連軍がソウル付近の仁川に上陸し、ソウルを奪還した一連の作戦・戦闘のこと)の直後、朴憲永が高官に「北朝鮮政権を倒し自身を中心にした親中政権を樹立する」意向を示したという、最近の中国での諸証言を踏まえれば、朴憲永と南朝鮮労働党(南労党)系列の人物らが北朝鮮政権を倒そうとした動きが事実だった可能性も排除できない。

それにもかかわらず朝鮮共産党の責任書記が米スパイ容疑で裁判を受け、死刑を言い渡されたという事実は、韓国現代史のミステリーのひとつと言える。裁判の時点や判決文に示された戦争を前後にした時期、38線(韓半島を横切る北緯38度線に引かれた米軍とソ連軍の分割占領ライン)南方で行われた共産党活動の失敗などを踏まえれば、戦争失敗の責任を朴憲永に転嫁しようとした政治的意図を読み取れる。55年が過ぎた現在までも歴史の真実は明らかにされずにいる。

                  ソウル大国際大学院・朴泰均教授(パク・テギュン、韓国現代史)



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