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【時視各角】日本、ごまかすべき対象になるのか=韓国

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
今日は『マクベス』(クォン・オスク訳)から始めよう。「ドン、ドン。誰だ、悪魔の名において尋ねるぞ。両天秤にかけて誓う詐欺師だな。神の為と謀反を起こしたが、天はごまかせなかったのか。そうかい、入って来い。この詐欺師」。

酒に酔って地獄の門を守っていると錯覚した門番の独白だ。シェークスピアとは誰か。ただの愚痴ではない。新教国家で弾圧の中で暮らすカトリック信者の語法、「ごまかし(Equivocation)」に対する嘲弄だ。

1605年、一群のカトリックの人たちが、新教の王と支配階層が議会に出席する際に議事堂を爆破するという陰謀を立てた。いわゆる「火薬陰謀事件(Gunpowder plot)」だ。事前に発覚して陰謀者は無惨に処刑された。この時、共に処刑された司祭(ヘンリー・ガーネット)がいる。知りながらも伝えなかったことがバチカンと連結した謀逆とされた。彼の「ごまかしの論文」が反逆の証拠となった。カトリック信者であることを認めれば迫害を受けるため認めることはできないが、それでも信仰を否認できない人たちのための論文だ。火薬陰謀事件をきっかけにごまかし自体が大きな問題になった。門番の言葉の中で「両天秤にかけて誓う者」という冷笑からも分かる。原文は「ごまかす者」だが、「詐欺師」とまで翻訳された理由だろう。


しかしこれは支配層の論理だ。事実を話すことが危険な時代、別の選択方法はなかったはずだ。

ごまかしが思い浮かんだのは共に民主党など野党圏と一部の団体の「親日」烙印があまりにも荒っぽいからだ。親日だけでは足りないのか、「ニューライト=親日」に拡張した。これからは公職を念頭に置いている人なら、日本に関しては教科書レベルから外れた発言をしてはいけないと感じるほどだ。教科書もうまく選ばなければいけない。

光復会のニューライト判別法を見てみよう。「李承晩(イ・スンマン)を建国大統領という者や団体」もあったが、自分たちの主張通りなら1919年の上海臨時政府樹立が建国だが、その時の初代大統領も李承晩ではないのか。その李承晩は何と呼ぶのか。「植民史観と植民地近代化論をそれとなく主張する者や団体」とも言っていたが、1920年代に京城市内を闊歩したモダンガールとモダンボーイの話をすると、ひょっとして「それとなく」と誤解するのではないのか。

過去は一面的ではない。在任中に「第2建国委」を設置したDJ(金大中元大統領)は解放直後に建国準備委員会木浦(モクポ)支部に入った。彼は2011年に出した自叙伝で「わが民族が独立して新しい国を建てるのにためらう理由はなかった」とした。DJが「解放空間で民族を救おうと東奔西走した卓越した人物」と見た建国準備委員長の呂運亨(ヨ・ウンヒョン)をめぐり、当時米国は「日本が崩壊しながら呂運亨に大金を与えてかろうじて救われた。道徳的勇気が不足する」(申福竜)と見なした。

極端な事例だが、植民地朝鮮出身で日帝の捕虜監視員として残酷な行為をして戦犯になった人たちはどうか。我々の社会はまとめて被害者の範疇に入れる。史学者の林志弦(イム・ジヒョン)氏は『犠牲者意識民族主義』で「自身に敵対的な外部世界を専有しながらくねくねと生きていく歴史的行為者の具体的な人生は抽象的な理念の基準で測量できない」とし「集合的無罪のコードが記憶文化を支配する限り、植民地朝鮮人や脱植民地韓国人が加害者であることもあり、また加害者でもあったという記憶が入る空間はより一層制限される」とした。

歴史を剥製にしておいてはいけない。多様な面を見ることができてこそ学ぶことができる。論争的な主張なら論争で対抗すればよい。しかし今の近代史は途方もない情熱で振りかざす武器になっている。当時に対する知的好奇心は極めて危険なものとなっている。どうするべきか。習わないのか、習ってもごまかすのか、本当にぶざまな時代だ。

コ・ジョンエ/中央SUNDAY編集局長代理



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