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日本から帰国したオ・ソンギュ愛国志士「韓日の過去は解決できない、これからは協力してともによく過ごしていかねば」(2)

ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版
――国内進攻に向けた韓米合同特殊訓練(OSS)の途中で解放の知らせに接することになった。

「いよいよわが国を取り戻したという思いだけだった。互いに万歳を叫びどれだけ喜んだか、どれだけあふれる感動だったか、いまでも記憶が鮮明だ。みんなで抱き合って、マッコリを取り出してお祝いもした。そしていまは家に帰れるだろうと考えた。ところがこのように100歳になって帰ってくることになるとはあの時は本当にわからなかった」。

――解放後に南北ではなく敵として向き合い戦った日本に行くことになった。


「ソウルに来たが警察が私を捕まえて行った。取り調べを受けた。故郷も北側(平安北道宣川)なので『アカ』なのではないかと考えたようだ。ソウルに来てすぐ何日も調べられ(金九が主導した)光復軍第3支隊で活動した事実が確認できてやっと解放された。手ぶらで解放されたが、その時は故郷である北側にも行けなかった。それでもソウルだからと過ごす所も暮らすことも難しかった。唯一知っている人は日本にいる知人だけだった。祖国が解放されてから私もできなかった勉強もしたかった。生きるために商売でもするには、本当に生きるためにはその道しかなかった。それで結局密航をするほかなかった」。

――息子にも光復軍活動の事実を遅くまで教えなかったと聞いた。

「後で話すと『うちのお父さんが光復軍だったのか』ととても驚いた。それでも誇らしかった」。

オさんは解放直後に理念で分かれた当時の状況に対し大きく失望したと話した。その一方で「歳月が流れて記憶が完全でなく、いまからは何であれ良い記憶をしたい」として当時感じた裏切りと幻滅感などに対する質問にはしばらく口を堅く閉ざした。そうした後「今は年齢があるので韓国に住んで大きく期待するよりは周囲に被害を与えないことに残る人生を安らかに過ごしたい」とした。

韓国語をうまく話せない息子の話も言葉を控えた。日本に向け銃口を向けた光復軍出身の父を持ち、日本で「在日韓国人」として生きなければならない息子に対する悩みが感じられた。これに対し野球の話をすると声に力が入り再び会話の扉が開いた。

――日本で在日同胞高校野球協会理事長を務めた。

「野球がとても好きだ。家にいる時も野球放送だけつけて過ごした。義父が在日同胞高校野球協会理事長をしていた。義父が会長になり私が理事長を務めた。野球を通じて日本に住む同胞をひとつにまとめ、そういうものをちょっとやってみたかった。昔は在日同胞の野球選手を連れて韓国に行って試合をすれば全勝したりもした」。

◇息子には光復軍での活動事実を遅く伝えた

――日本に対抗し、また一生を日本で暮らした。後世に伝えたい話がありそうだ。

「以前にあったことはただ解決できることでない。日本は自国の利益だけ考える。それでもいまになってみると隣国同士仲が悪く過ごしてどうなるだろうか。互いの利害関係により協力すべきことは協力しても構わない。昔のことだけ記憶するよりは同じ民主主義国なのだから互いに理解して協力し一緒によく過ごしていかなければならない時になった。しかし何よりも重要なことは自分の国はどんなことがあっても必ず自分が守らなければならないという点だ。この話を必ずしたかった」。

オさんは現在報勲病院で総合検診を受けている。悪いところは少なくないが、挙動が不便でこれまで日本では主に往診を受けていたため先端医療装備を活用した精密診断は全く受けられなかったという。オさんは「ここに来て久しぶりに歯科治療も受け、補聴器と靴も新調した。すべてがありがたく、これ以上ないほどに世話してくれて感謝する」と話した。報勲部はオさんが検診を終えた後に特別な異常がなければ報勲療養院の特室を使えるようにする計画だ。

オさんが帰国して韓国国内の独立有功者は8人になった。海外に居住している独立有功者は米国のイ・ハジョンさんが唯一だ。報勲部はイさんもやはり本人の意志により永久帰国を推進する一方、死後には国立墓地に埋葬する案も用意しておいた状態だ。


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