日本から帰国したオ・ソンギュ愛国志士「韓日の過去は解決できない、これからは協力してともによく過ごしていかねば」(1)
ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版
2023.08.20 13:07
「重要なことは、自分の国は何があっても自分が必ず守らなければならないということ。日本はいまでも私には倭奴にすぎないが、だからと仲が悪いだけ、反対に仲が良いだけで過ごす必要もないです」。
日本に対する考えを尋ねると、今年100歳であるオ・ソンギュさんの呼吸がわずかに乱れた。しばらく考えた彼は「昔のことは解決できることではない」としてこのように話した。少しして再び考えを整えると「それでもいまは互いに協力し一緒によく過ごしていかなければならない」ともした。
オさんは日帝強占期に「韓国光復軍第3支隊」で活動した。13日に永久帰国するまで日本に生存していた最後の光復軍だった。16歳の中学生時代から若さをまるごと独立運動に捧げた後、100歳になって夢に描いた故国の地を踏んだ。オさんは18日に中央SUNDAYとのインタビューで終始「私を忘れないでいてくれてとてもありがたい」という話を繰り返した。「私をこのように歓待してくれるのでむしろ申し訳ない気持ち」としながらだ。
――故国に帰ってきて迎えた光復節は意味が格別なようだ。
「東京を離れる前日に荷物をまとめて考えた。荷物をまとめてみたら持っていくものは小さな旅行かばんひとつがすべてだった。それを静かに見て『私がもう本当に、いよいよ故国に戻るんだな』と思った。本当に胸にこみ上げてきた。いつも考えていた。死ぬ時は本当に自分の国に戻って人生を終えたいと」。
――かばんには何を入れてきたか。
「ほかのものはみんな必要ないといった。家族の写真と国からもらった国家有功者証勲章があれば十分だった。うまく動けないのでいまは服も別に必要がない。しかし大切な勲章なのに私は名前もない。私はまだ『チュ・テソク』だ。国家報勲部の朴敏植(パク・ミンシク)長官が私を連れ帰るとして東京に来てこれを見たら、法を変えてでも私の名前を必ず取り戻すと言っていた。故国がありがたい」。
◇どんなことがあっても自分の国必ず守らねば
ソウル中央報勲病院のオさんの病室には宝物のように持ってきた小さな額縁3個と勲章証、国家有功者証が並べられている。ベッドのそばには13日に金浦(キンポ)空港での歓迎式の際にだれかが作った歓迎カードがかけられている。しかし彼の話のように1990年に受けた建国勲章民族愛章にはオ・ソンギュではなく光復軍活動当時に使った仮名であるチュ・テソクという名前が記されていた。
光復軍は日帝の追跡を避けるため自軍同士でも仮名を使った。もし日本軍に捕まっても互いを保護するため同志たちの間では故郷がどこかもあまり尋ねなかったという。オさんに対する勲章授与が光復(解放)から45年もかかったのも当時のこうした状況と関連があった。だが勲章授与後には名前を修正できない現行法のため、結果的に彼は100歳になっても依然として「名前のない英雄」として残っている。
――帰国直後にキム・ハッキュ第3支隊長の墓で挙手敬礼し帰国報告をした。
「光復軍第3支隊にいたがキム・ハッキュ将軍が私の上官だった。当然上官に帰国報告をしなければならないと考えた。報告してそばを見たらオ・グァンシムさんの墓が並んでいた。キム・ハッキュ将軍の夫人だが、オさんは一緒に独立運動をしながら宗親だとして私をとてもかわいがってくれた。大事なあめ玉を私にだけそっとくれたこといまでも思い出す」。
――光復軍に加わったのが中学生の時だった。
「2~3人と一緒に北京に行き、光復軍に入るため重慶まで歩いて行った。わらじを履いて20日歩いた。足から血が出るほど歩いた。私でも倭奴が怖くないわけではなかった。時々倭奴と出会えばどうするか心配もした。若かったとはいえ死ぬかもしれないということをわからないはずはない。それでも日帝統治をこれ以上受けられないという考えだけした。到着して同じ考えを持つ人々を見て安心した。同志たちもほとんど10代後半だったが私がそこでも最も若かった。もしかすると固く決心したあの時が一番幸せだったようだ」。
この日のインタビューは医療陣のサポートを受けながら電話で行われた。新型コロナウイルスが再流行する状況でオさんの健康を最優先に考慮した報勲部の決定だった。耳が遠く医療陣が記者の質問を通訳するようにオさんの耳の横で大きな声で再び伝えてから答を聞く過程を経たが、電話を通じて聞こえてくる彼の息と小さな震えを通じても100年の屈曲した現代史を貫いてきた彼の「恨(ハン)」の多い人生の深さがそのまま伝わってきた。
日本から帰国したオ・ソンギュ愛国志士「韓日の過去は解決できない、これからは協力してともによく過ごしていかねば」(2)
日本に対する考えを尋ねると、今年100歳であるオ・ソンギュさんの呼吸がわずかに乱れた。しばらく考えた彼は「昔のことは解決できることではない」としてこのように話した。少しして再び考えを整えると「それでもいまは互いに協力し一緒によく過ごしていかなければならない」ともした。
オさんは日帝強占期に「韓国光復軍第3支隊」で活動した。13日に永久帰国するまで日本に生存していた最後の光復軍だった。16歳の中学生時代から若さをまるごと独立運動に捧げた後、100歳になって夢に描いた故国の地を踏んだ。オさんは18日に中央SUNDAYとのインタビューで終始「私を忘れないでいてくれてとてもありがたい」という話を繰り返した。「私をこのように歓待してくれるのでむしろ申し訳ない気持ち」としながらだ。
――故国に帰ってきて迎えた光復節は意味が格別なようだ。
「東京を離れる前日に荷物をまとめて考えた。荷物をまとめてみたら持っていくものは小さな旅行かばんひとつがすべてだった。それを静かに見て『私がもう本当に、いよいよ故国に戻るんだな』と思った。本当に胸にこみ上げてきた。いつも考えていた。死ぬ時は本当に自分の国に戻って人生を終えたいと」。
――かばんには何を入れてきたか。
「ほかのものはみんな必要ないといった。家族の写真と国からもらった国家有功者証勲章があれば十分だった。うまく動けないのでいまは服も別に必要がない。しかし大切な勲章なのに私は名前もない。私はまだ『チュ・テソク』だ。国家報勲部の朴敏植(パク・ミンシク)長官が私を連れ帰るとして東京に来てこれを見たら、法を変えてでも私の名前を必ず取り戻すと言っていた。故国がありがたい」。
◇どんなことがあっても自分の国必ず守らねば
ソウル中央報勲病院のオさんの病室には宝物のように持ってきた小さな額縁3個と勲章証、国家有功者証が並べられている。ベッドのそばには13日に金浦(キンポ)空港での歓迎式の際にだれかが作った歓迎カードがかけられている。しかし彼の話のように1990年に受けた建国勲章民族愛章にはオ・ソンギュではなく光復軍活動当時に使った仮名であるチュ・テソクという名前が記されていた。
光復軍は日帝の追跡を避けるため自軍同士でも仮名を使った。もし日本軍に捕まっても互いを保護するため同志たちの間では故郷がどこかもあまり尋ねなかったという。オさんに対する勲章授与が光復(解放)から45年もかかったのも当時のこうした状況と関連があった。だが勲章授与後には名前を修正できない現行法のため、結果的に彼は100歳になっても依然として「名前のない英雄」として残っている。
――帰国直後にキム・ハッキュ第3支隊長の墓で挙手敬礼し帰国報告をした。
「光復軍第3支隊にいたがキム・ハッキュ将軍が私の上官だった。当然上官に帰国報告をしなければならないと考えた。報告してそばを見たらオ・グァンシムさんの墓が並んでいた。キム・ハッキュ将軍の夫人だが、オさんは一緒に独立運動をしながら宗親だとして私をとてもかわいがってくれた。大事なあめ玉を私にだけそっとくれたこといまでも思い出す」。
――光復軍に加わったのが中学生の時だった。
「2~3人と一緒に北京に行き、光復軍に入るため重慶まで歩いて行った。わらじを履いて20日歩いた。足から血が出るほど歩いた。私でも倭奴が怖くないわけではなかった。時々倭奴と出会えばどうするか心配もした。若かったとはいえ死ぬかもしれないということをわからないはずはない。それでも日帝統治をこれ以上受けられないという考えだけした。到着して同じ考えを持つ人々を見て安心した。同志たちもほとんど10代後半だったが私がそこでも最も若かった。もしかすると固く決心したあの時が一番幸せだったようだ」。
この日のインタビューは医療陣のサポートを受けながら電話で行われた。新型コロナウイルスが再流行する状況でオさんの健康を最優先に考慮した報勲部の決定だった。耳が遠く医療陣が記者の質問を通訳するようにオさんの耳の横で大きな声で再び伝えてから答を聞く過程を経たが、電話を通じて聞こえてくる彼の息と小さな震えを通じても100年の屈曲した現代史を貫いてきた彼の「恨(ハン)」の多い人生の深さがそのまま伝わってきた。
日本から帰国したオ・ソンギュ愛国志士「韓日の過去は解決できない、これからは協力してともによく過ごしていかねば」(2)
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