奈良県奈良市にある東大寺に入るには木造の巨大な南大門を通過する。赤、緑、黄の以前の色を保存している内側の建物とは違い、この南大門は木の本来の色を維持している。歳月を感じさせる門の越えれば、過去へ向かう旅行の出発ラインで気持ちを整える感じだ。
先月、この門を通過しながら日本人の同行者に尋ねた。「以前の姿に合わせて繰り返し塗るのがよいのか、それともこのように時間の経過に共に置いておくのがよいのか」。返答はこうだ。「良い悪いの問題ではないようだ。歳月をそのまま見せるのが日本らしい点だ」。うなずきながら考えた。完ぺきな再現だけが威厳を表すのではない。時間の経過と自然というものが与える教えがある。
先月23日、東大寺を訪れながらこのような対話が続いた。韓日中3カ国協力事務局(Trilateral Cooperation Secretariat、TCS)が先月19日から11日間の日程で進行した「東アジア文化都市(CCEA)メディア&インフルエンサーツアー」に参加した約10人がここを訪問した。
TCSは3カ国の文化的連帯感と人的交流を強化して相互認識を改善するため、慶州市と奈良市、中国揚州市を3カ国参加者が共に見学する機会を用意した。韓国東アジア文化センター、中国公共外交協会、日本自治体国際化協会などがツアーを支援した。
◆東大寺の僧侶が3カ国の参加者に投げかけた言葉「縁」
日本仏教華厳宗の大本山の東大寺は3カ国交流の歴史があり、示唆する点が特に多い。8世紀初め、聖武天皇は権力闘争と伝染病で混乱した国を安定させるために寺院の建設を積極的に推進したという。最大規模の青銅大仏と木造建物を建立するために中国の建築技術を導入し、百済・新羅出身の技術者の努力もあった。
こうした交流の歴史は東大寺の石畳の道にも残っている。約50年前、インド、中国、韓国、日本の石を道に並べて敷いた。日本に仏教を伝播した順序に基づく配置という。ツアー参加者を案内した森本僧侶は韓日中3カ国の参加者を各国から来た石の上に立つように話した後、「人と人の『縁』を重視してほしい」と伝えた。
自分が立つ道を越えて隣の道と縁まで考える精神は青銅大仏にも表れている。仏像の台座の下の蓮弁に刻まれた絵は多くの世界が結びついているという蓮花世界の象徴だ。一部は過去の東大寺の大火災で溶けて絵が消え、先が丸くなっている。溶けたところは現代人のそれぞれの想像にまかせる。分節された世界にまた字を刻んで結ぶのは残された私たちの役割だ。
この仏像が今日に発するオーラはこうした縁に対する想像と時間が込められた結果だ。東大寺が2度の大火災に見舞われながらも再起できたのはこうした心のためだったのだろう。東大寺建立当時の「一枝の草、一握りの土でも捧げる」という精神に基づいて260万人が参加したという。森本僧侶は「すべての日本人の先祖の1人は参加したほど」と説明した。
◆東大寺に込められた韓日中交流の跡
東大寺では最初のツアー場所の慶州を思い出させるものも多かった。東大寺の大仏に近づく階段では心を整える。仏国寺(プルグクサ)の階段を上った時の記憶があったからだ。イ・ギョンエ文化解説士は仏国寺(プルグクサ)を訪問したツアー参加者に「寺の建物に上がる階段を意図的に狭くして人々が謙虚な気持ちと姿勢で上るようにした」と説明した。
過去の日本と朝鮮半島の交流の跡も見ることができる。ツアーに同行した大阪市立美術館長の内藤栄氏は「東大寺にある皇室の宝庫の正倉院に百済と新羅の遺物がある」と説明した。
中国揚州にある大明寺は東大寺と唐招提寺の風景と似ていた。寺が焼けないように祈る思いを込めて屋根に付けられた鴟尾の飾りを除けば、ここが奈良なのか揚州なのか紛らわしくなるほどだ。唐の僧、鑑真によるつながりのためだ。日本に仏教を伝播してほしいという要請を受けた鑑真は東大寺と唐招提寺で仏教と各種学問を教えた。鑑真が日本に到着するまで10年以上の間に5度の失敗があったという。台風に見舞われるなど毎回、困難に直面し、旅程を途中であきらめなければならなかった。鑑真は6度目にようやく日本にたどり着いたが、同行した弟子が死去し、鑑真本人も視力を失った後だった。ツアーバスに乗り降りする時には、鑑真の一行が命がけで船に乗った旅程を考えたりもした。11日間に3カ国を回りながら、互いの文化と歴史を理解することが新鮮に感じられる瞬間だった。
鑑真が日本と中国の交流を表すアイコンなら、中国と韓国の参加者は新羅の学者、崔致遠(チェ・チウォン)について話した。揚州にある崔致遠記念館には高麗王朝の文臣、鄭夢周(チョン・モンジュ)の銅像も見ることができる。鄭夢周は明を6回訪れたという。金亨駿(キム・ヒョンジュン)在大阪大韓民国総領事は先月23日、仲川げん奈良市長が用意したツアー歓迎夕食会で「韓日中3カ国は数千年の歴史の中で、互いに最も近い隣国としてさまざまな方面で影響を及ぼし合いながら共に成長してきた」と述べた。
先月、この門を通過しながら日本人の同行者に尋ねた。「以前の姿に合わせて繰り返し塗るのがよいのか、それともこのように時間の経過に共に置いておくのがよいのか」。返答はこうだ。「良い悪いの問題ではないようだ。歳月をそのまま見せるのが日本らしい点だ」。うなずきながら考えた。完ぺきな再現だけが威厳を表すのではない。時間の経過と自然というものが与える教えがある。
先月23日、東大寺を訪れながらこのような対話が続いた。韓日中3カ国協力事務局(Trilateral Cooperation Secretariat、TCS)が先月19日から11日間の日程で進行した「東アジア文化都市(CCEA)メディア&インフルエンサーツアー」に参加した約10人がここを訪問した。
TCSは3カ国の文化的連帯感と人的交流を強化して相互認識を改善するため、慶州市と奈良市、中国揚州市を3カ国参加者が共に見学する機会を用意した。韓国東アジア文化センター、中国公共外交協会、日本自治体国際化協会などがツアーを支援した。
◆東大寺の僧侶が3カ国の参加者に投げかけた言葉「縁」
日本仏教華厳宗の大本山の東大寺は3カ国交流の歴史があり、示唆する点が特に多い。8世紀初め、聖武天皇は権力闘争と伝染病で混乱した国を安定させるために寺院の建設を積極的に推進したという。最大規模の青銅大仏と木造建物を建立するために中国の建築技術を導入し、百済・新羅出身の技術者の努力もあった。
こうした交流の歴史は東大寺の石畳の道にも残っている。約50年前、インド、中国、韓国、日本の石を道に並べて敷いた。日本に仏教を伝播した順序に基づく配置という。ツアー参加者を案内した森本僧侶は韓日中3カ国の参加者を各国から来た石の上に立つように話した後、「人と人の『縁』を重視してほしい」と伝えた。
自分が立つ道を越えて隣の道と縁まで考える精神は青銅大仏にも表れている。仏像の台座の下の蓮弁に刻まれた絵は多くの世界が結びついているという蓮花世界の象徴だ。一部は過去の東大寺の大火災で溶けて絵が消え、先が丸くなっている。溶けたところは現代人のそれぞれの想像にまかせる。分節された世界にまた字を刻んで結ぶのは残された私たちの役割だ。
この仏像が今日に発するオーラはこうした縁に対する想像と時間が込められた結果だ。東大寺が2度の大火災に見舞われながらも再起できたのはこうした心のためだったのだろう。東大寺建立当時の「一枝の草、一握りの土でも捧げる」という精神に基づいて260万人が参加したという。森本僧侶は「すべての日本人の先祖の1人は参加したほど」と説明した。
◆東大寺に込められた韓日中交流の跡
東大寺では最初のツアー場所の慶州を思い出させるものも多かった。東大寺の大仏に近づく階段では心を整える。仏国寺(プルグクサ)の階段を上った時の記憶があったからだ。イ・ギョンエ文化解説士は仏国寺(プルグクサ)を訪問したツアー参加者に「寺の建物に上がる階段を意図的に狭くして人々が謙虚な気持ちと姿勢で上るようにした」と説明した。
過去の日本と朝鮮半島の交流の跡も見ることができる。ツアーに同行した大阪市立美術館長の内藤栄氏は「東大寺にある皇室の宝庫の正倉院に百済と新羅の遺物がある」と説明した。
中国揚州にある大明寺は東大寺と唐招提寺の風景と似ていた。寺が焼けないように祈る思いを込めて屋根に付けられた鴟尾の飾りを除けば、ここが奈良なのか揚州なのか紛らわしくなるほどだ。唐の僧、鑑真によるつながりのためだ。日本に仏教を伝播してほしいという要請を受けた鑑真は東大寺と唐招提寺で仏教と各種学問を教えた。鑑真が日本に到着するまで10年以上の間に5度の失敗があったという。台風に見舞われるなど毎回、困難に直面し、旅程を途中であきらめなければならなかった。鑑真は6度目にようやく日本にたどり着いたが、同行した弟子が死去し、鑑真本人も視力を失った後だった。ツアーバスに乗り降りする時には、鑑真の一行が命がけで船に乗った旅程を考えたりもした。11日間に3カ国を回りながら、互いの文化と歴史を理解することが新鮮に感じられる瞬間だった。
鑑真が日本と中国の交流を表すアイコンなら、中国と韓国の参加者は新羅の学者、崔致遠(チェ・チウォン)について話した。揚州にある崔致遠記念館には高麗王朝の文臣、鄭夢周(チョン・モンジュ)の銅像も見ることができる。鄭夢周は明を6回訪れたという。金亨駿(キム・ヒョンジュン)在大阪大韓民国総領事は先月23日、仲川げん奈良市長が用意したツアー歓迎夕食会で「韓日中3カ国は数千年の歴史の中で、互いに最も近い隣国としてさまざまな方面で影響を及ぼし合いながら共に成長してきた」と述べた。
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