朴大仁(パク・デイン)米国宣教師が韓国で30年間ほど過ごして帰国したことがあった。彼は私の家の近所に暮らし、親しく付き合った。朴氏が教会で話したことを思い出す。彼が東南アジアに来ている外国の宣教師の会に出席した時だった。そこで日本から来たある宣教師に会った。日本の宣教師は朴氏が韓国から来たという事実を知り、対話をすることになった。その日本の宣教師に関する話だ。
太平洋戦争が終盤になると、東京の市民は米国の空襲を避けて避難を急いだ。その宣教師は避難先を探して、ある田舎に行ったという。知る人もいないが、みんな戦争に苦しんでいて自分のことで精一杯だった。ところがその村に暮らすある家庭の夫婦が訪ねてきてあいさつをし、「困ったことがあれば言ってほしい」と親切に声をかけてきた。
◆「お互い助け合うべき」
その後、両家は互いに親しくなり、その宣教師は心から感謝していた。避難先の異郷で温かい慰労だった。歳月が過ぎて戦争は終わり、宣教師の家族は戻る準備をした。
その時、自分の家族を支えてくれた家庭は韓国人であり、日本国籍に帰化していたという事実を知った。直接話すことはなかったが、クリスチャンの家族だった。別れる時にも「無事に帰って幸せに過ごすことを祈り続ける」とあいさつした。自分は助けてもらったものの別れればそれで終わりと考えていたが、「祈祷する」という愛の声が感動として残った。
数年の歳月が過ぎてからだった。それまで宗教に関心がなかったが、ある教会の前を通り過ぎた際、避難先で出会った家族を思い出し、教会に通ってみたいという考えになった。初めての経験だったが、教会の集会に2、3回ほど参加しながら担任牧師とも言葉を交わし、親交も深まった。
このようなことがきっかけで信仰を得た彼は、遅くから神学を勉強して牧師になった。日本よりも仏教社会と見ることができる東南アジアで宣教師になると決心した。名もない韓国の教徒の祈祷で自分が宣教師になるとは思ってもいなかったと告白した。
日本の宣教師の体験談を紹介しながら、朴氏はその韓国人は日本人の模範となり、宣教師を送り出す隠れた功労者になったとし、日本人の尊敬を受ける韓国人が増えればいいと話した。
【コラム】韓日関係を磨く道、私たち周辺の貴重な話(2)
太平洋戦争が終盤になると、東京の市民は米国の空襲を避けて避難を急いだ。その宣教師は避難先を探して、ある田舎に行ったという。知る人もいないが、みんな戦争に苦しんでいて自分のことで精一杯だった。ところがその村に暮らすある家庭の夫婦が訪ねてきてあいさつをし、「困ったことがあれば言ってほしい」と親切に声をかけてきた。
◆「お互い助け合うべき」
その後、両家は互いに親しくなり、その宣教師は心から感謝していた。避難先の異郷で温かい慰労だった。歳月が過ぎて戦争は終わり、宣教師の家族は戻る準備をした。
その時、自分の家族を支えてくれた家庭は韓国人であり、日本国籍に帰化していたという事実を知った。直接話すことはなかったが、クリスチャンの家族だった。別れる時にも「無事に帰って幸せに過ごすことを祈り続ける」とあいさつした。自分は助けてもらったものの別れればそれで終わりと考えていたが、「祈祷する」という愛の声が感動として残った。
数年の歳月が過ぎてからだった。それまで宗教に関心がなかったが、ある教会の前を通り過ぎた際、避難先で出会った家族を思い出し、教会に通ってみたいという考えになった。初めての経験だったが、教会の集会に2、3回ほど参加しながら担任牧師とも言葉を交わし、親交も深まった。
このようなことがきっかけで信仰を得た彼は、遅くから神学を勉強して牧師になった。日本よりも仏教社会と見ることができる東南アジアで宣教師になると決心した。名もない韓国の教徒の祈祷で自分が宣教師になるとは思ってもいなかったと告白した。
日本の宣教師の体験談を紹介しながら、朴氏はその韓国人は日本人の模範となり、宣教師を送り出す隠れた功労者になったとし、日本人の尊敬を受ける韓国人が増えればいいと話した。
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