今月13日に訃報が届けられた日本の小説家、大江健三郎氏は最近の言葉で「校内暴力」の犠牲者だった。加害者は校長先生だった。太平洋戦争が真っ最中だったとき、小学生だった大江は日々校長のむち打ちに耐えなければならなかった。その時少年は決心した。いつかはそんな子どもについての小説を書こうと。
少年はなぜむちで打たれたのか。今考えれば信じられないことだ。当時、学校では毎朝のように朝礼が開かれていたが、校長先生は子どもたち1人1人に「天皇陛下が死ねと命令したらどうするか」と聞いた。返事は一つだった。「死にます。割腹して死にたいと思います」。少年・大江はためらった。小さな田舎に住む自分のことを天皇が知っているのだろうかと思った。大江が躊躇(ちゅうちょ)する間、激怒した先生はムチを手にした。
2006年5月高麗(コリョ)大学を訪問した大江氏が「私の文学と過去60年」の講演で公開したエピソードだ。小学生にすら忠誠と犠牲を強要した日本軍国主義の一断面だ。個人を消そうとした帝国主義の暴力性を反すうすることになる。日本人でもこうなのに、まして植民地韓国人の境遇は言うに及ばない。「日本はいくら謝罪しても十分ではないほど大きな犯罪を韓国に対して犯した」と批判してきた大江氏の気持ちが分かるようだ。
ノーベル文学賞作家・大江氏の17年前の講演にはもうひとつ別のエピソードがある。やはり太平洋戦争の時のものだった。母親が『ハックルベリー・フィンの冒険』の古本を買ってきたが、作家が米国人マーク・トウェインだった。米国と交戦中なので、米国の本を読むとむちで打たれるのが常だった。その時、母親が知恵をひねり出した。マーク・トウェインはドイツ人で、ペンネームだけを覚えやすく米国式に変えたと答えるようにと教えた。実際、大江は校長先生に捕まったが、母親が話したように応えたところ、「おや、よく知っているね」と称賛されたという。日本とドイツは第2次世界大戦同盟だった。はるか昔のことのように聞こえる。
大江は『ハックルベリー・フィンの冒険』で座右の銘を得た。「よし、じゃあ、おれは地獄に行く(All right,then,I’ll go to hell)」だ。小説で「不良少年」ハックが逃げた黒人奴隷を密告しないで、それならば自分が地獄に進もうと決断する部分だ。既存のゆがんだ道徳や法律から抜け出すという宣言で、大江氏にはこの言葉を自分の文学と社会活動の支えとなった。
大江氏が2004年日本の平和憲法改正に反対する「九条の会」結成に主導的に参加したのもこのような脈絡に従っている。東アジアの辛い過去を忘れないで、韓日中3国の和解を模索しようとした。もちろん大江氏は日本の真の謝罪から要求した。老年になっても反戦デモに参加して日本の右傾化を心配した。結局日本社会の流れを変えることはできなかったが、人間と歴史に対する信頼を最後まで諦めなかった。
「九条の会」の目的は大きく見ると韓日中の共存を希求した安重根義士ともつながる。日本政治学者の山室信一氏は日本の戦後反戦思想を安重根と連動させた。「安重根の東洋平和論から日本国憲法9条につながる思想の水脈を発見した時、身震いした」と話した。今月26日は安義士の逝去から113年を迎える。大江氏と安義士の積集合が格別に感じられる。
尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領の訪日で韓日関係正常化に始動がかかった。政治・経済・安保協力の出口を開いたという評価だ。反面、今回のことは激しい論争ももたらした。屈辱外交論争もある。特に日本は歴史問題に関する限り、相変らず不動の姿勢だ。心の交流までは先が遠い。「あらゆることの責任を負う」という尹大統領が「地獄であろうとも行く」という決起で前途を突破していくのか注目している。
尹大統領は未来を約束した。だが、現在のない未来はありえない。この際、安義士の著述原本や遺骸資料発掘の協力を日本に要請すればどうだろうか。ちょうど報勲処も報勲部への昇格を控えている。新刊『遺骸資料、安重根を探して』(キム・ウォルべ編著)を見てふとよぎった考えだ。
パク・ジョンホ/首席論説委員
少年はなぜむちで打たれたのか。今考えれば信じられないことだ。当時、学校では毎朝のように朝礼が開かれていたが、校長先生は子どもたち1人1人に「天皇陛下が死ねと命令したらどうするか」と聞いた。返事は一つだった。「死にます。割腹して死にたいと思います」。少年・大江はためらった。小さな田舎に住む自分のことを天皇が知っているのだろうかと思った。大江が躊躇(ちゅうちょ)する間、激怒した先生はムチを手にした。
2006年5月高麗(コリョ)大学を訪問した大江氏が「私の文学と過去60年」の講演で公開したエピソードだ。小学生にすら忠誠と犠牲を強要した日本軍国主義の一断面だ。個人を消そうとした帝国主義の暴力性を反すうすることになる。日本人でもこうなのに、まして植民地韓国人の境遇は言うに及ばない。「日本はいくら謝罪しても十分ではないほど大きな犯罪を韓国に対して犯した」と批判してきた大江氏の気持ちが分かるようだ。
ノーベル文学賞作家・大江氏の17年前の講演にはもうひとつ別のエピソードがある。やはり太平洋戦争の時のものだった。母親が『ハックルベリー・フィンの冒険』の古本を買ってきたが、作家が米国人マーク・トウェインだった。米国と交戦中なので、米国の本を読むとむちで打たれるのが常だった。その時、母親が知恵をひねり出した。マーク・トウェインはドイツ人で、ペンネームだけを覚えやすく米国式に変えたと答えるようにと教えた。実際、大江は校長先生に捕まったが、母親が話したように応えたところ、「おや、よく知っているね」と称賛されたという。日本とドイツは第2次世界大戦同盟だった。はるか昔のことのように聞こえる。
大江は『ハックルベリー・フィンの冒険』で座右の銘を得た。「よし、じゃあ、おれは地獄に行く(All right,then,I’ll go to hell)」だ。小説で「不良少年」ハックが逃げた黒人奴隷を密告しないで、それならば自分が地獄に進もうと決断する部分だ。既存のゆがんだ道徳や法律から抜け出すという宣言で、大江氏にはこの言葉を自分の文学と社会活動の支えとなった。
大江氏が2004年日本の平和憲法改正に反対する「九条の会」結成に主導的に参加したのもこのような脈絡に従っている。東アジアの辛い過去を忘れないで、韓日中3国の和解を模索しようとした。もちろん大江氏は日本の真の謝罪から要求した。老年になっても反戦デモに参加して日本の右傾化を心配した。結局日本社会の流れを変えることはできなかったが、人間と歴史に対する信頼を最後まで諦めなかった。
「九条の会」の目的は大きく見ると韓日中の共存を希求した安重根義士ともつながる。日本政治学者の山室信一氏は日本の戦後反戦思想を安重根と連動させた。「安重根の東洋平和論から日本国憲法9条につながる思想の水脈を発見した時、身震いした」と話した。今月26日は安義士の逝去から113年を迎える。大江氏と安義士の積集合が格別に感じられる。
尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領の訪日で韓日関係正常化に始動がかかった。政治・経済・安保協力の出口を開いたという評価だ。反面、今回のことは激しい論争ももたらした。屈辱外交論争もある。特に日本は歴史問題に関する限り、相変らず不動の姿勢だ。心の交流までは先が遠い。「あらゆることの責任を負う」という尹大統領が「地獄であろうとも行く」という決起で前途を突破していくのか注目している。
尹大統領は未来を約束した。だが、現在のない未来はありえない。この際、安義士の著述原本や遺骸資料発掘の協力を日本に要請すればどうだろうか。ちょうど報勲処も報勲部への昇格を控えている。新刊『遺骸資料、安重根を探して』(キム・ウォルべ編著)を見てふとよぎった考えだ。
パク・ジョンホ/首席論説委員
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