尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領がソウルに来た米国のナンシー・ペロシ下院議長に会わないで電話会談だけをした。空港には誰も出迎えに行かなかった。米国権力序列3位のペロシ氏は蜜月関係である日本・台湾はもちろん、同盟国でもないシンガポールやマレーシアでも国家首脳に会った。尹大統領の休暇日程のためとはいえ、大きな間違いを犯した。
ペロシ氏はトランプ元大統領の過度な在韓米軍防衛費引き上げ圧力の時にブレーキをかけ、慰安婦糾弾決議案の下院通過を主導して日本の謝罪を求めた韓国の友人だ。粗雑な応対は訪韓が米中葛藤の象徴である台湾訪問直後に行われたせいで中国の反発を意識したものとみられる。
英国フィナンシャル・タイムズは「尹大統領がペロシ議長を冷遇した」とした。韓米同盟の強化を外交政策の最優先課題として叫んできた尹政府の基調はどこに消えたのだろうか。自尊心が強い米国の誰かは報復性の請求書に手をかけているだろう。
過去の痛恨の事例をひとつ。1966年9月、1泊2日の日程で訪韓したニクソン前副大統領と朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の悪縁だ。ニクソン氏は1960年大統領選挙でケネディに負け、カリフォルニア州知事選挙でも敗北した。すべての言論が「もうニクソンは終わった」と書いた。しかしこの老練な不死鳥はジョンソン大統領の破綻したベトナム政策に代わる「ニクソンドクトリン」を大統領選挙のカードとしてさらに磨きをかけようとしていた。そのため東南アジアと日本を経由して、ベトナムに軍隊を派兵した韓国の雰囲気を確かめにきたのだった。
ブラウン駐韓大使は李東元(イ・ドンウォン)元外務部長官に助けを求めた。李東元は朴正熙に「人の運命というものは分かり得ないものです。いま彼を厚遇すれば、決して我々のことを忘れないでしょう」と晩さんを勧めた。しかし、朴正熙は「その人はもう終わっている人なのにわざわざそうする必要はあるのか」と言って拒否した。反面、東南アジアの国々と日本は最高の優遇でもって迎えた。今の尹政府とよく似ている。
それからわずか2年後の1968年、ニクソンはベトナム戦で守勢に追い込まれたハンフリーを僅差でおさえて大統領に当選した。予告した通り「ニクソンドクトリン」を取り出し、「在韓米軍撤退」に言及した。朴正熙は国家存亡の岐路に立った。朴正煕は「すべてのルートを総動員してニクソンとの面談を斡旋せよ」と指示したが後の祭りだった。
結局、朴正熙は「済州島を米国軍事基地として明け渡す」とえさを投げた。するとニクソンは降参したふりをして反応を見せた。「良いだろう。ただし、ワシントンは無理なので、8月の夏休みの時に私の故郷の近くのサンフランシスコで会うようにしよう」。恥辱的な提案だったがプライドを捨ててバカンス地にいる米国大統領を訪ねた。
後日、朴正熙は李東元にこのように述懐した。「弱小国の悲哀を惨めに味わった。少なくともホテルのロビーではニクソンが迎えてくれるだろうと期待していた。しかしホテルのロビーにも、エレベーターに乗って下りた時も、ドアを開けて部屋に入った時もニクソンは現れなかった。私が部屋に入った後、左側の大きな扉が開いたので、そちらに目をやると部屋の奥の方にニクソンが立ったまま私を迎えていたではないか。もちろん歩いて来ることもなかったし、まるで属国の王を迎えるように対応した。夕食時は取るに足りない故郷の友人を呼んで座らせ、一緒に食事しろというではないか」。
李東元は「ニクソンの『1泊2日』が在韓米軍の最初の撤退を生み、朴大統領に危機意識を持たせて10月維新や核開発など悪手を打たせた。米国との不和は政局不安を呼び、結局10・26(朴正煕暗殺事件)まで続いた」と回顧した(『大統領を懐かしみながら』李東元)。国家運命の責任を負った最高指導者には、このようにたった一瞬の油断も許されないという事実を尹大統領は知るべきだろう。
大統領室はペロシ氏の儀典が「国益を総体的に考慮して決めたこと」としながら「通話のときの雰囲気は和気あいあいとしていた」と話した。果たしてそうだろうか。米国の外交専門紙「フォーリン・ポリシー」は駐韓米国大使館関係者を引用して「歓待がなくて非常に不快だ」と報じた。元国務政策企画部長のミッチェル・リース氏は「韓国が米国を侮辱した」とし「共同の価値を守護しないという信号を世界に送った」とした。元国務次官補代理(核不拡散担当)のマーク・フィッツパトリック氏は「中国の機嫌を取る考えだったとしても無駄だった」としながら「不幸なことに、中国に『韓国を困らせてもかまわない』という認識だけを与えた」と話した。
韓米同盟を強調する保守政権でなぜこのようなことが起きたのだろうか。「臣下の国には外交がない」という朝鮮「藩臣無外交」の亡霊が復活したのか。国賓訪問した中国で一人飯を食べる侮辱を受けても沈黙した前任大統領とどのような違いがあるというのか。
これからは中国に対して堂々としなければならない。北朝鮮の脅威が存在する限り、韓国外交の基本は韓米同盟だ。この動かし難い事実をはっきりと知らせなければならない。それでこそ中国が韓国を再び見るようになるだろう。リップサービスではない、真の相互尊重が可能になる。シンガポールは南シナ海問題で中国の圧迫を受けると「通商国家として航行の自由の原則を手放すことはできない」と対抗した。このような剛気が必要だ。ペロシ氏冷遇の本質は米国に対する侮辱であることに先立ち、韓国自身に対する侮辱行為という事実だ。
李夏慶(イ・ハギョン)/主筆・副社長
ペロシ氏はトランプ元大統領の過度な在韓米軍防衛費引き上げ圧力の時にブレーキをかけ、慰安婦糾弾決議案の下院通過を主導して日本の謝罪を求めた韓国の友人だ。粗雑な応対は訪韓が米中葛藤の象徴である台湾訪問直後に行われたせいで中国の反発を意識したものとみられる。
英国フィナンシャル・タイムズは「尹大統領がペロシ議長を冷遇した」とした。韓米同盟の強化を外交政策の最優先課題として叫んできた尹政府の基調はどこに消えたのだろうか。自尊心が強い米国の誰かは報復性の請求書に手をかけているだろう。
過去の痛恨の事例をひとつ。1966年9月、1泊2日の日程で訪韓したニクソン前副大統領と朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の悪縁だ。ニクソン氏は1960年大統領選挙でケネディに負け、カリフォルニア州知事選挙でも敗北した。すべての言論が「もうニクソンは終わった」と書いた。しかしこの老練な不死鳥はジョンソン大統領の破綻したベトナム政策に代わる「ニクソンドクトリン」を大統領選挙のカードとしてさらに磨きをかけようとしていた。そのため東南アジアと日本を経由して、ベトナムに軍隊を派兵した韓国の雰囲気を確かめにきたのだった。
ブラウン駐韓大使は李東元(イ・ドンウォン)元外務部長官に助けを求めた。李東元は朴正熙に「人の運命というものは分かり得ないものです。いま彼を厚遇すれば、決して我々のことを忘れないでしょう」と晩さんを勧めた。しかし、朴正熙は「その人はもう終わっている人なのにわざわざそうする必要はあるのか」と言って拒否した。反面、東南アジアの国々と日本は最高の優遇でもって迎えた。今の尹政府とよく似ている。
それからわずか2年後の1968年、ニクソンはベトナム戦で守勢に追い込まれたハンフリーを僅差でおさえて大統領に当選した。予告した通り「ニクソンドクトリン」を取り出し、「在韓米軍撤退」に言及した。朴正熙は国家存亡の岐路に立った。朴正煕は「すべてのルートを総動員してニクソンとの面談を斡旋せよ」と指示したが後の祭りだった。
結局、朴正熙は「済州島を米国軍事基地として明け渡す」とえさを投げた。するとニクソンは降参したふりをして反応を見せた。「良いだろう。ただし、ワシントンは無理なので、8月の夏休みの時に私の故郷の近くのサンフランシスコで会うようにしよう」。恥辱的な提案だったがプライドを捨ててバカンス地にいる米国大統領を訪ねた。
後日、朴正熙は李東元にこのように述懐した。「弱小国の悲哀を惨めに味わった。少なくともホテルのロビーではニクソンが迎えてくれるだろうと期待していた。しかしホテルのロビーにも、エレベーターに乗って下りた時も、ドアを開けて部屋に入った時もニクソンは現れなかった。私が部屋に入った後、左側の大きな扉が開いたので、そちらに目をやると部屋の奥の方にニクソンが立ったまま私を迎えていたではないか。もちろん歩いて来ることもなかったし、まるで属国の王を迎えるように対応した。夕食時は取るに足りない故郷の友人を呼んで座らせ、一緒に食事しろというではないか」。
李東元は「ニクソンの『1泊2日』が在韓米軍の最初の撤退を生み、朴大統領に危機意識を持たせて10月維新や核開発など悪手を打たせた。米国との不和は政局不安を呼び、結局10・26(朴正煕暗殺事件)まで続いた」と回顧した(『大統領を懐かしみながら』李東元)。国家運命の責任を負った最高指導者には、このようにたった一瞬の油断も許されないという事実を尹大統領は知るべきだろう。
大統領室はペロシ氏の儀典が「国益を総体的に考慮して決めたこと」としながら「通話のときの雰囲気は和気あいあいとしていた」と話した。果たしてそうだろうか。米国の外交専門紙「フォーリン・ポリシー」は駐韓米国大使館関係者を引用して「歓待がなくて非常に不快だ」と報じた。元国務政策企画部長のミッチェル・リース氏は「韓国が米国を侮辱した」とし「共同の価値を守護しないという信号を世界に送った」とした。元国務次官補代理(核不拡散担当)のマーク・フィッツパトリック氏は「中国の機嫌を取る考えだったとしても無駄だった」としながら「不幸なことに、中国に『韓国を困らせてもかまわない』という認識だけを与えた」と話した。
韓米同盟を強調する保守政権でなぜこのようなことが起きたのだろうか。「臣下の国には外交がない」という朝鮮「藩臣無外交」の亡霊が復活したのか。国賓訪問した中国で一人飯を食べる侮辱を受けても沈黙した前任大統領とどのような違いがあるというのか。
これからは中国に対して堂々としなければならない。北朝鮮の脅威が存在する限り、韓国外交の基本は韓米同盟だ。この動かし難い事実をはっきりと知らせなければならない。それでこそ中国が韓国を再び見るようになるだろう。リップサービスではない、真の相互尊重が可能になる。シンガポールは南シナ海問題で中国の圧迫を受けると「通商国家として航行の自由の原則を手放すことはできない」と対抗した。このような剛気が必要だ。ペロシ氏冷遇の本質は米国に対する侮辱であることに先立ち、韓国自身に対する侮辱行為という事実だ。
李夏慶(イ・ハギョン)/主筆・副社長
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