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【コラム】なぜ米戦闘機ではなく韓国を選んだか…ポーランドは「ナチスの悪夢」を覚えていた(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

2022年7月27日、ポーランド現地で行われた韓国製防産物資の購入に関する基本協定式。実際の導入まで越えなければならない問題はまだ山積しており、規模も大きいため何かと話が多い。[写真 国防部共同取材団]

1938年9月29日、ドイツ・ミュンヘンに集まった英国・フランス・イタリアの首脳はドイツがチェコスロバキアのズデーテン地方を占拠する代わりにアドルフ・ヒトラーからこれ以上領土を要求しないという確約を取り付けた。弱小国の主権を無視したいわゆるミュンヘン協定だった。だが1939年3月、ドイツがボヘミア・モラビアを直轄保護領とし、スロバキアを独立させて傀儡国にしながらチェコスロバキアは地球上から消えた。そのようにして約束は6カ月で破綻した。

これでドイツの次の目標がポーランドだという事実は明らかになった。尻に火がついたポーランドは英国やフランスと同盟を結んで軍備増強に出た。侵略に150万人を投じる予定のドイツ軍には劣勢でも、ポーランド軍もまた100万人の兵力を動員できる強軍だった。野砲の質と量も不足していなかった。機甲戦力は格差が大きかったが、当時ドイツ軍の主力だった1号、2号戦車は防御力が貧弱で、むやみに恐れるべき相手ではなかった。

問題は航空戦力だった。当時、世界最強を自負していたドイツ空軍は2300機の各種最新作戦機を保有していた。ポーランド空軍も600機の戦闘機・爆撃機を含めて1400機を保有していたが、問題は大部分が旧式だったという点だった。すべて国内製作会社であるPLZが開発・生産したのは肯定的だったが、性能が落ちた。特に制空権をかけて戦わなければならないP.11戦闘機でドイツのBf-109戦闘機を相手にするには力が及ばなかった。


1933年、ナチスが政権を取ってからは徐々に危機が高まっていたが、為政者が権力争いに没頭して軍備投資を怠った結果だった。すぐにポーランドが取れる方法は海外から戦闘機・爆撃機を導入するということだった。当時Bf-109と対等に相手できる戦闘機は、1938年8月から配置に入った英国のスピットファイアが唯一だった。ポーランドは急いで購入を打診したが英国は自国の物量が優先なので1941年以降になってこそ可能だと回答した。

苦心の末、ポーランドはスピットファイアよりも性能が下でもすぐに供給が可能な戦闘機の確保に出た。そのようにして1939年8月初めにフランスとM.S.406戦闘機120機の導入契約を結んだ。Bf-109よりは劣るがP.11よりは良かったので選んだ次善策だった。そして契約を結んで1カ月も経たない8月29日、第1回分40機の船積みが決まったが、ノルウェー国籍の貨物船が武器という理由で輸送を拒否して出港が今日明日と延期になった。

そのような中で9月1日、ついに戦争が勃発した。孤軍奮闘していたポーランド軍を最も苦しめたのは予想通りドイツ空軍だった。P.11が懸命に出撃して阻止に出たが、結局制空権を奪われ、その後空から降り注ぐ爆弾を避けられなかった。特にポーランドの抗戦意志を弱めるために実施したワルシャワ空襲で壊滅的な被害を受けた。貨物船は9月15日になって紆余曲折の末にようやく出港したがポーランドに直接向かう方法がなかった。

そのため関係が良かったルーマニアを通じて輸送しようと到着港をコンスタンツァに変えて向かっている途中で、ポーランドが降参して戦争があっさり終わった。もちろん40機のM.S.406がタイミングよく到着していても戦局を変えるのは不可能だった。だが戦う前に敗れたことがこの上なく残念に思ったポーランドのパイロットたちは悔し涙を流した。そのためポーランドでは、適時に到着しなかったM.S.406が悔恨の対象として今も語り継がれている。


【コラム】なぜ米戦闘機ではなく韓国を選んだか…ポーランドは「ナチスの悪夢」を覚えていた(2)

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