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【コラム】日帝強占期の小学教科書…「朝鮮の本当の敵は明国」(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

壬辰倭乱当時に朝鮮軍が平壌城を奪い返す状況を描いた「平壌城奪還図」(部分)。左側が追われる倭軍。作家未詳。 [写真=国立中央博物館]

「垣根の下で子どもが母を呼びながら泣いていた。尋ねると、一昨日の晩に母親に捨てられたという。遠からず死を迎えるはずで、かわいそうでならない。私も遠からず子どもを埋めることになるだろう。(…)乞食は非常に少ない。みんな飢死したからだという。嶺南(ヨンナム)や京畿(キョンギ)では人が互いに殺し合って食べることが多いが、親戚まで殺して食べることもあったという。これでは人間が滅びてしまう」。呉希文(オ・ヒムン、1539-1613)が書いた壬辰倭乱(文禄・慶長の役)当時の避難日記『瑣尾録』に出てくる惨状だ。

建国から200年が過ぎた朝鮮は2度の大きな侵略戦争、壬辰倭乱、丙子胡乱を経験した。戦争で崩壊した日常が平穏の代わりに広がった。未来も不確かだったが、何よりも今の命を守ることも難しかった。そこに怒りと挫折、恥辱と自尊、責任と回避が共存し、徐々に人々の生活を締めつけた。ある戦争は7年間続いた。ある戦争は1、2カ月間の短い期間だったが、内傷ははるか深く朝鮮の人々を混乱させた。

◆呉希文の壬辰乱避難日記『瑣尾録』


どれ一つとして朝鮮人が望んだり選択したりしたものではなかった。それでもその恐怖の中で人々は自分たちの生活をしなければならなかった。したがって戦争を経験した時代の人々に対する功過や評価が後回しになり、功過や評価への言及が避けられない場合にも慎重になるしかない。

ところが朝鮮の戦争に対する接近にはそのような慎重さがない。それどころか、朝鮮は弱小国とか、事大主義に染まった結果だと冷笑や敗北主義が事実と解釈に取って代わる。そうなった理由を理解できる資料を見てみよう。

日帝強占期の『尋常小学国史』 6単元「壬辰乱」の「教授要旨」にはこのように記述されている。「本科では士禍と朋党が続き、それによって国力が徐々に衰退していく頃に周辺国との騒乱を経験し、国力が大きく疲弊したことを説明する。当時の日本の国家状況を明らかにし、いわゆる壬辰乱について説明する」。

続いて教科書を教える指針にはこのように書かれている。「日本軍が朝鮮の人民を労った部分を紹介する。ほとんどの日本軍は乱暴に荒らす行為は少なく、逆に救援しに来た明国の軍隊が奪取と略奪をしたという内容が複数の著書に少なくない」。

指針の要旨は朝鮮人の本当の敵は日本の軍隊ではなく明の軍隊だったとのことだ。このように日帝植民史学の「党争論」と「事大主義論」が「教育方針」の形式で正式化した。日帝強占期の壬辰倭乱の記述は党争論と結びついて侵略戦争としての性格を希釈した。

「党争」への言及が始まり、時々その「戦争」を忘れ、その「侵略性」を忘れる。侵略性に対する注意が消えれば、侵略戦争が人々の心理に、思考に、振る舞いに、そして生活に及ぼす外傷を考慮せず、普段から平穏な日常を暮らす人々として理解する。いま比較的平穏な日常生活をしているために配慮が及ばないのだろうか。実際、経験したことがないことを想像するのは誰にでも限界がある。


【コラム】日帝強占期の小学教科書…「朝鮮の本当の敵は明国」(2)

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