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【コラム】日本はどのように強大国になったのか(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
1543年にポルトガル人が伝えた銃器が日本では「鉄砲」という名前で広まった。日本人はすぐにこれを模倣して作り始め、すぐに同じ時期の欧州より優れた製品を作って使用し、日本の戦争様相を変えた。1592年に朝鮮に出兵した16万人の兵力のうち約4万人が鉄砲で武装したという。

銃器を短期間で独自に発展させたのも驚きだが、さらに驚く事実は数十年後に日本で銃器の使用が実質的に消えてしまうことだ。徳川幕府の成立(1603)以降、大きな戦争がなくなり、銃器の使用が消えていった。

◆マテオ・リッチが感心した平和


戦争がないからといって銃器の効用が消えたのではないようだ。1703年の事件を劇化した「忠臣蔵」は主君の復讐に命をかけた47人の侍の話だ。敵1人を殺すことを目的とするのなら銃器が適切な道具ではないだろうか。

銃器の使用は「武士らしくない」という観念が見える。こうした観念の支配がまさに「平和の文化」を物語る。16世紀末に中国に来たマテオ・リッチはこのような平和の文化に驚嘆した。「兵士も、軍官も、文官も、武官も、誰も市内で武器を持ち歩けなくなっている。(...)人々の間の争いや暴力といえば、せいぜい髪を引っ張ったり爪で引っ掻く程度を超えないため、人が死んだり負傷したりすることは聞かれない。むしろ争いを避けて退く人が礼儀正しく勇気ある人として称賛を受ける」。

日本で戦国時代が過ぎて徳川幕府体制になったのは、中国で戦国時代が過ぎて天下帝国を成し遂げたのを彷彿させる。統一を成し遂げた支配勢力は新しい挑戦者の出現を防ぐために国内の暴力水準を低めるのに努力した。中華帝国が「天下」の平和を守るのに注力したように徳川幕府は日本を一つの「小天下」として守ったのだ。

日本の暴力性に対する韓国人の印象は、2度の侵略の経験から生じたものだ。隣人の「人間性」や隣国の「国民性」に対する慎重でない断定は真の理解を妨げやすい。暴力性が表れた歴史的状況を把握することでさらに深い理解が可能になるはずだ。

キム・ギヒョプ/歴史学者


【コラム】日本はどのように強大国になったのか(1)

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