こじれるだけこじれた韓日歴史問題を解決し、破局直前の韓日関係の改善を模索する時だ。第20代大統領選挙で当選した尹錫悦(ユン・ソクヨル)次期大統領は岸田文雄首相と電話会談をし、韓日関係改善のために互いに協力することに同意した。未来に向けた希望のあいさつを交わしたが、問題は絡んだ糸をどこからどう解いていくのかだ。
岸田首相は、韓国大法院(最高裁)の強制徴用判決で悪化した韓日関係を改善するためには、韓国側が先制的な解決法を提示すべきだという日本政府の従来の立場を堅持している。なら、ようやく同意した両国間の協力が実行に移されるためには、文在寅(ムン・ジェイン)政権とは異なる接近が必要となる。
私は尹錫悦政府が韓国の高まった「国格」にふさわしい先制的解決法を果敢に提示してふさがった出口を開き、韓日歴史問題の解決過程で韓国が主導権を確保することを期待する。「包容論的な和解」はその解決方法の哲学的な土台になるだろう。
今まで韓日の過去をめぐる和解の摸索は「責任論的和解」に基づいて行われてきた。加害者が謝罪して被害者が許すことを核心内容とする責任論的和解は、第2次世界大戦以降、欧州国家間の和解のための理論として決定的な役割をした。欧州ではこうした形で実際に効果をもたらし、欧州連合(EU)の誕生と同時にもはや欧州で過去の問題による深刻な対立を探すのが難しくなった。
◆責任論的和解論、西欧のキリスト教と関係
一方、1991年の慰安婦被害者・金学順(キム・ハクスン)さんの証言をきっかけに、東アジア地域でも歴史問題が懸案に浮上した。欧州に比べて歴史の和解が非常に遅れた時点だっただけに、この問題を説明して解決するのに責任論的和解論が使用された。「日本が謝罪して韓国が許す」という和解の摸索が活発に進められ、1993年の河野談話、95年の村山談話を経て、ついに98年の金大中(キム・デジュン)-小渕パートナーシップ宣言につながった。
しかし金大中大統領の楽観的な見方は教科書歪曲、領土問題、靖国神社参拝、慰安婦問題などの障害物にぶつかり、それ以降は歴史の和解が進展どころかむしろ退行と逆行を繰り返し、そして2018年10月の強制徴用大法院判決をきっかけに韓日関係は最悪の状況に陥った。もう責任論的な和解論はその機能と寿命をすべて終えるようだ。
もともと責任論的和解論は、西欧のキリスト教文化を背景とする宗教的な和解と密接な関係がある。神と人間の関係に基盤を置いたキリスト教的和解は、自身の罪に対する罪人の悟り、罪の告白と悔悟、容赦、そして罪人の是正努力の順序で成り立つ。欧州の国家間和解はこうした個人レベルでの和解順序を国家間に適用し、加害国のドイツが被害国に対して謝罪と補償をすることで和解が成立した。
欧州とは違い、江戸時代から明治、そして帝国主義時代を経て現在にいたる日本の文化的基盤は、キリスト教的な世界観や価値観とは距離が大きい。日本に責任論的和解論に基づく「真」の謝罪を要求しても、納得するほどの応答を期待するのが難しかった。たとえ責任論的和解論が道徳的な側面で正当性を持っても、現実の政治領域で実質的な効果をもたらすことができなければ、新しい和解論を模索する必要がある。私は韓日関係の改善と歴史の和解のための哲学的土台として、従来の責任論的和解論とは根本的に異なる包容論的和解論を提示する。
◆国の格にあった思考・行為要求される
今日の大韓民国は経済・軍事力で世界10大先進強国に入っている。文化の力はそれよりはるかに光を放つ。韓国の「国格」は、請求権協定が締結された1965年、パートナーシップ宣言をした98年とは顕著に異なる。もう韓国は自らに誇りを持って国際社会で高まった国格にふさわしい思考と行為をしなければならない。被害者の立場で加害者の無限責任(被害者が望むほどの責任)を執拗に追及するよりも、加害者の立場・見解・主張を聞いて理解し、彼らの傷と痛みさえも共に治癒していく包容的な観点に思考を転換する必要がある。これは決して加害者が謝罪しないので無条件に許そうという論理ではない。包容は謝罪と容赦のフレームから抜け出した和解の方式だ。
責任を追及する主体から相手を包容する主体への自らを切り換えるためには、何よりも今までの自身の姿に対する真摯な省察が要求される。別の言い方をすれば、責任論的和解論に基づいて日本を相手にしてきた自らの姿を客観的に眺める必要がある。そのために責任論的和解の論理構造をもう少し詳しく眺めてみよう。
加害者と被害者の概念は非常にあいまいだ。被害者の概念には被害当事者、被害者支援団体、被害国民、被害国など異なる複数の層位がある。さらに被害時点と和解の時点が非常に遠ざかって被害の相続という問題が追加されれば、より一層複雑になる。韓日歴史問題の本質を正確に把握するために、被害者の代わりにの複数の層位を包括する意味として「被害者側」という概念を使って論理構造を整理してみよう。
【コラム】最悪の韓日関係を解決すべき韓国新政権(2)
岸田首相は、韓国大法院(最高裁)の強制徴用判決で悪化した韓日関係を改善するためには、韓国側が先制的な解決法を提示すべきだという日本政府の従来の立場を堅持している。なら、ようやく同意した両国間の協力が実行に移されるためには、文在寅(ムン・ジェイン)政権とは異なる接近が必要となる。
私は尹錫悦政府が韓国の高まった「国格」にふさわしい先制的解決法を果敢に提示してふさがった出口を開き、韓日歴史問題の解決過程で韓国が主導権を確保することを期待する。「包容論的な和解」はその解決方法の哲学的な土台になるだろう。
今まで韓日の過去をめぐる和解の摸索は「責任論的和解」に基づいて行われてきた。加害者が謝罪して被害者が許すことを核心内容とする責任論的和解は、第2次世界大戦以降、欧州国家間の和解のための理論として決定的な役割をした。欧州ではこうした形で実際に効果をもたらし、欧州連合(EU)の誕生と同時にもはや欧州で過去の問題による深刻な対立を探すのが難しくなった。
◆責任論的和解論、西欧のキリスト教と関係
一方、1991年の慰安婦被害者・金学順(キム・ハクスン)さんの証言をきっかけに、東アジア地域でも歴史問題が懸案に浮上した。欧州に比べて歴史の和解が非常に遅れた時点だっただけに、この問題を説明して解決するのに責任論的和解論が使用された。「日本が謝罪して韓国が許す」という和解の摸索が活発に進められ、1993年の河野談話、95年の村山談話を経て、ついに98年の金大中(キム・デジュン)-小渕パートナーシップ宣言につながった。
しかし金大中大統領の楽観的な見方は教科書歪曲、領土問題、靖国神社参拝、慰安婦問題などの障害物にぶつかり、それ以降は歴史の和解が進展どころかむしろ退行と逆行を繰り返し、そして2018年10月の強制徴用大法院判決をきっかけに韓日関係は最悪の状況に陥った。もう責任論的な和解論はその機能と寿命をすべて終えるようだ。
もともと責任論的和解論は、西欧のキリスト教文化を背景とする宗教的な和解と密接な関係がある。神と人間の関係に基盤を置いたキリスト教的和解は、自身の罪に対する罪人の悟り、罪の告白と悔悟、容赦、そして罪人の是正努力の順序で成り立つ。欧州の国家間和解はこうした個人レベルでの和解順序を国家間に適用し、加害国のドイツが被害国に対して謝罪と補償をすることで和解が成立した。
欧州とは違い、江戸時代から明治、そして帝国主義時代を経て現在にいたる日本の文化的基盤は、キリスト教的な世界観や価値観とは距離が大きい。日本に責任論的和解論に基づく「真」の謝罪を要求しても、納得するほどの応答を期待するのが難しかった。たとえ責任論的和解論が道徳的な側面で正当性を持っても、現実の政治領域で実質的な効果をもたらすことができなければ、新しい和解論を模索する必要がある。私は韓日関係の改善と歴史の和解のための哲学的土台として、従来の責任論的和解論とは根本的に異なる包容論的和解論を提示する。
◆国の格にあった思考・行為要求される
今日の大韓民国は経済・軍事力で世界10大先進強国に入っている。文化の力はそれよりはるかに光を放つ。韓国の「国格」は、請求権協定が締結された1965年、パートナーシップ宣言をした98年とは顕著に異なる。もう韓国は自らに誇りを持って国際社会で高まった国格にふさわしい思考と行為をしなければならない。被害者の立場で加害者の無限責任(被害者が望むほどの責任)を執拗に追及するよりも、加害者の立場・見解・主張を聞いて理解し、彼らの傷と痛みさえも共に治癒していく包容的な観点に思考を転換する必要がある。これは決して加害者が謝罪しないので無条件に許そうという論理ではない。包容は謝罪と容赦のフレームから抜け出した和解の方式だ。
責任を追及する主体から相手を包容する主体への自らを切り換えるためには、何よりも今までの自身の姿に対する真摯な省察が要求される。別の言い方をすれば、責任論的和解論に基づいて日本を相手にしてきた自らの姿を客観的に眺める必要がある。そのために責任論的和解の論理構造をもう少し詳しく眺めてみよう。
加害者と被害者の概念は非常にあいまいだ。被害者の概念には被害当事者、被害者支援団体、被害国民、被害国など異なる複数の層位がある。さらに被害時点と和解の時点が非常に遠ざかって被害の相続という問題が追加されれば、より一層複雑になる。韓日歴史問題の本質を正確に把握するために、被害者の代わりにの複数の層位を包括する意味として「被害者側」という概念を使って論理構造を整理してみよう。
【コラム】最悪の韓日関係を解決すべき韓国新政権(2)
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