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【コラム】「ソ連軍=解放軍」用語は世界共産化を狙った宣伝扇動術(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
19世紀末から20世紀初期にかけて道徳哲学は懐疑主義に陥った。名詞中心の道徳性探求に懐疑が生じた。こうした潮流の代案的な試みとして、カナダ道徳哲学者チャールズ・テイラーは『自我の源泉(Sources of the Self)』で新しい現代道徳哲学を提示した。彼が提示した人間の正しいアイデンティティは内面性、日常生活に対する肯定、個性、自然の声、繊細な言語に要約される。これらはすべて名詞的な真理としての道徳性(=真)に限られるのではなく、善良さ(=善)と美しさ(=美)も含んでいる。このような意味でテイラーがいう「神は副詞を愛し給う」という部分は大きな意味がある。副詞は文法で付随的な品詞だ。省いても意思疎通に大きな問題はない。しかし副詞がある時に本当の意思疎通ができる。この副詞があるために、よりうれしいことにより大きく笑うことができ、より悲しいことにより多くの共感で慰め合うことができる。

ところが我々の社会には歴史をいわゆる名詞だけで理解しようとする弊害がある。こうした接近は、歴史的な問題に実体的な真実がただ一つだけ存在すると考え、他の可能性をすべて排除する。北朝鮮を根拠なく追従する者をいう「従北左派」や日本を盲目的に追う者をいう「親日派」などの用語が典型だ。このような命名法はそれぞれ北朝鮮と日本を対話の主題として考えず、頑固な名詞的地位を持つ価値として考える一種の誤謬を犯している。

最近、光復会の会長がある高校に送った映像の「ソ連軍は解放軍、米軍は占領軍」という講演は、我々の社会を騒がせた。今でも光復会のホームページには「親日清算なしには国民統合は不可能だ。民族を分離させることに没頭する親日反民族勢力の清算なしには南北統一も不可能だ。積弊清算の核心はまさに親日清算だ」という内容が堂々と掲載されている。筆者は親日行為を称賛しようというわけではない。筆者の祖父は日帝強占期に大阪に労働者として連れて行かれ、光復(解放)後に帰国した。母は当時5歳だったが、釜関フェリーに乗って帰国する際、海水が青色ではなく黒かったと記憶していた。


光復会の会長が主張した「ソ連軍は解放軍、米軍は占領軍」の問題について考えてみよう。この問題は字句のまま解釈せず脈絡の中で見る必要がある。裁判でも事件の実体的な真実と同じくらい状況証拠が重要だ。まずは韓半島(朝鮮半島)の特殊性を知らなければいけない。韓半島は1945年8月15日に日本帝国主義からの解放を迎えた。解放には我々の努力があったが、より正確には米国をはじめとする連合国の勝利で贈り物のように「与えられた」ものだった。ここで先祖の血が染まった抗日闘争を看過してはいけないが、当時の状況がそうだったということだ。日帝強占期、韓半島には大韓帝国や大韓民国は存在しなかった。当時は大韓帝国の形式的な伝統と上海臨時政府の地位が国際的に通用しなかった大激変期だった。

よく、親日清算がまともに行われず、大韓民国の建国の出発が正常でなかったと言いながらフランスを例に挙げる。フランスは第2次世界大戦以前に厳然たる国家として存在していたし、自国を他国に渡すこともなかった。したがって戦勝国はフランスを本来の位置に戻す問題にいかなる異議も提起しなかった。その結果、フランスはナチ勢力を一挙に除去し、戦後の国家再建を推進することができた。

しかし韓半島の状況は全く違った。1910年の韓日併合から解放までの36年間、国はなくなった。戦勝国の米国の立場では、日本の本土に対しては米軍の上陸作戦があったため別途の武装解除が必要なかった。しかし日本が占領した他の地域、特に韓半島では日本軍の武装解除のためにソ連との役割分担が必要だった。このため米ソ協議で38度線を基準に北側にはソ連軍が、南側には米軍が駐留した。

では米軍は占領軍だったのか。布告令の文字通りなら確かに占領軍だ。しかし米軍は初期には日本軍の武装解除のために、その後は信託統治のための軍政の役割をすることになった。それで米軍が韓国地域に継続駐屯した。すなわち、朝鮮人が自ら国家を建設できるよう支援するために信託統治が必要だったし、それで軍隊を派遣したのだった。信託統治はすでに国際的な協約が定めた原則だった。

戦勝国は日本の降伏を受け、国家が存在しない韓半島を戦後秩序再建の主要議題と考えた。これに先立ち1943年にエジプト・カイロに集まった米国・中国・英国の首脳は韓国の独立問題を考えた。カイロ会談は「韓国民の奴隷状態に留意し、適切な手続きを踏んで(in due course)、自由に独立しなければならない」と発表した。信託統治を経て韓国民の国家を建設するということだった。信託統治期間は最初の計画では40年となっていたが、最終的に5年で確定した。5年をまた3年に短縮したのは大韓民国を作った建国人の貢献だった。この内容はその後、ヤルタ会談とポツダム会談にも継承された。したがって当時の米軍は日本軍武装解除と大韓民国建国の準備が目標だった。


【コラム】「ソ連軍=解放軍」用語は世界共産化を狙った宣伝扇動術(2)

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