1980年代初め。サムスンが半導体を始めた頃だった。米中央情報局(CIA)は「韓国の半導体産業を育成すべき」という内容の報告書を作成した。「日本に半導体産業が集中する場合、米国のリスクが高まる」という理由だった。当時は日本経済が近く米国を超えるという見方が出ていた。
米国は直ちに実行に入った。1985年のプラザ合意で日本円の強みを抑えると、翌年には日米半導体協定で日本の半導体(産業)を封じた。日本国内の外国産半導体比率を20%まで引き上げ、日本の半導体を米国にダンピング輸出できないという内容が骨子だった。「第2のペリー屈辱」と呼ばれたこの協定で、日本企業はしだいにDRAMから手放すことになり、そこに韓国のサムスンと現代・金星(LG)が入り込む空間が開かれた。米国は快く韓国に半導体技術と装備を移転した。
米国は直ちに実行に入った。1985年のプラザ合意で日本円の強みを抑えると、翌年には日米半導体協定で日本の半導体(産業)を封じた。日本国内の外国産半導体比率を20%まで引き上げ、日本の半導体を米国にダンピング輸出できないという内容が骨子だった。「第2のペリー屈辱」と呼ばれたこの協定で、日本企業はしだいにDRAMから手放すことになり、そこに韓国のサムスンと現代・金星(LG)が入り込む空間が開かれた。米国は快く韓国に半導体技術と装備を移転した。
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