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【コラム】韓国人「戦犯」最後の生存者李鶴来の生と死(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
李さんをはじめとする戦犯7人が法廷闘争に出たのは1991年だ。8年間続いた裁判で原告は1・2・3審いずれも敗訴した。「深刻で甚大な犠牲と被害」を負った事実は認められるが現行法上救済の方法がないという判断だった。「法がなければ法より上位概念である条理により補償すべき」という原告の主張は受け入れられなかった。だが得るものがないわけではなかった。2審法廷の東京高等裁判所は判決文で「問題の早期解決に向け適切な立法措置を講じることを期待する」と指摘し、最高裁判所の判決文にも「補償は立法の裁量」と明記された。裁判ではなく立法に基づく補償が望ましいという趣旨と理解された。

これに鼓舞された李さんは活動の中心を立法運動に移した。数えきれないほど議員会館を訪ねた末に野党の民主党を中心に2008年に1人当たり300万円の特別給付を支給する法案がまとめられ提出されたが会期内に処理されず廃案となった。2016年には自民党議員まで加勢して新たな法案が作られた。ここまで来ただけでも大きな成果と言えるが、法案上程と審議を経て通過するまでは依然としてハードルは高い。

この最後のハードルを越えられずに李鶴来さんは先月28日に96歳で生涯を終えた。4日後に国会で開かれる予定の「外国籍BC級戦犯者問題解決のための早期立法を願う集い」で映像演説をすることになっていた。この日の行事は自然に李鶴来追悼会になってしまった。日韓議員連盟幹事長である自民党の河村建夫議員は「このままで済ませてよい問題ではない。再度党内手続きを進めたい」として意志を見せた。


李さんをはじめとするBC級戦犯の行為は加害者的側面と被害者的側面を同時に持っている。捕虜の立場から見れば彼らは否定できない加害者だった。たとえ自身の意志で積極的虐待行為をした記憶はなく、日帝軍部の最末端として上部の指示通り任務を遂行したものだとしても責任は回避できる性質のものではなかった。筆者と会った時の口述や回顧録、インタビューなどによると、李さんは一生を後ろめたさとそれにともなう責任感を持って生きた。

李さんは1991年8月に日本人研究者の斡旋で勇気を出しオーストラリアに行き、シンポジウムで公開謝罪をした。彼が管理した捕虜であり彼を告訴した人と会い謝罪し和解の握手をした。

だがBC級戦犯はより根本的な意味で日帝の被害者だった。17歳で捕虜監視員になった李さんのケースのように人員割当を受けた役場の強要と、徴用または徴兵で連れて行かれるのを避けようとする目的で志願した「半強制」的な事例が大部分であるためだ。こうした事実を考慮し韓国政府は2006年にBC級戦犯を日帝強制動員被害者と公式に認めた。李鶴来さんが生前最も喜んだのは当時の羅鍾一(ラ・ジョンイル)駐日大使から被害者認定書を受け取った時だった。

これによる彼が抱えていた祖国韓国に対する後ろめたさを若干は減らすことができた。彼は「同じ時期に独立運動をした人もいるのに私はそうできなかったし、結果的に日本軍を助けたのは事実だ。弁解したくない」と話した。彼が1956年に仮釈放された後も長く韓国の地を踏めなかった理由だ。

滔滔たる歴史の流れが曲がりくねるたびに予期しない犠牲者が生じる。力と理念、貪欲が国家権力を動かし人間の理性を支配する時期であるほど弱い個人は歴史のいけにえになりやすい。植民統治と戦争の悲劇を乗り越えてきた韓国人ならばだれでも李さんのような運命に置かれる可能性もあった。

一生戦犯のレッテルを抱えて暮らした李鶴来さんは韓国人BC級戦犯148人のうち最後の生存者だった。慰安婦、強制徴用など清算されていない過去史問題が残っているがBC級戦犯問題もやはり歴史の傷をきれいに洗い落とすことができなかった事例のひとつだ。朝日新聞は7日、彼の死を契機に日本政府と日本社会の覚醒を痛烈に促す社説を掲載した。「この国の正義や良識とは何なのか。政治の、そしてその政治の不作為を見過ごしてきた国民の、責任が問われる」。

長きにわたり李鶴来さんの助力者だったチェ・ボンテ弁護士は同じ質問を韓国政府と韓国社会にもできると話す。「国民が寂しく数十年にわたり名誉回復に向け戦っている間に韓国政府は何をしたのか問いたい。李鶴来さんが韓国の憲法裁判所に出した憲法訴願は7年にわたり眠っている」。


【コラム】韓国人「戦犯」最後の生存者李鶴来の生と死(1)

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