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<光復75周年-日帝強制動員、奪われた家族3>慰安婦被害者の娘、七十の人生の烙印はいつ消えるのか(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

先月20日、母の故朴玉蓮さんが眠る大田(テジョン)市立公園墓地を訪れた娘のイム・ミョンオクさん。「母が亡くなる前、重湯もよく飲み込めないとき、ヤクルトはよく召し上がっていた」というミョンオクさんは母親に会いに来るときにはヤクルトを忘れず持ってくる。イム・ヒョンドン記者

旧日本軍慰安婦被害者の故・朴玉蓮(パク・オクリョン)さん。「ナヌムの家」で晩年を過ごした朴玉蓮さんは「私は200歳まで生きて死にたい」という言葉が口癖だった。

朴玉蓮さんが生前に残した証言によると、1919年4月に全羅北道茂朱(チョルラブクド・ムジュ)で生まれ、1942年南太平洋パプアニューギニアに連れて行かれた。旧日本軍9万人が駐留したラバウル島の慰安婦としてだ。

帰国した船が2度に渡って破損し、生死の境をさまよって44年に帰国した。帰国後結婚をしたが、その結婚は家庭がある男の家に入って「第2夫人」として一緒に暮らすというものだった。


「母親がそういうところに行ってきたから子どもを産めないのではないか、本妻の体の調子が良くなく子どもが2人いるということで、子供たちをちゃんと育ててくれればいい、そのような話になって妾になったということのようです」

娘のイム・ミョンオクさん(71)氏は後日叔母から聞いた話だと言った。

「ところが妾になった途端、母が兄を生んで私の下の妹まで産んだということです。私は何も知らずに大きくなりました。幼い私に何が分かりましょうか」

郡庁の公務員だった優しい父親と本妻、異母兄2人、そこに母親の子供3人まで。イム・ミョンオクさんは8人家族の中で特別な波風なく育った。10歳になってようやく入学した小学校を卒業してから彼女は中学校ではなく編物学院を選んだ。成人になったからだった。同じ地域の友人は一人二人と嫁いでいくのに結婚話がなかった。23歳になった秋、当時としては遅れた結婚をする。西海岸の蘇莱浦口(ソレポグ)の塩田で働く男だった。妊娠の兆しがないまま時が流れた末、夫は子供が持つことができない人であるということを知るようになった。その渦中に姑が中風で倒れる。

「子どもを産んで育てたかったのに、このまま仲良く暮らしていくことはできない。私は激しく怒り、夫が嫌いになり始めて一緒に住みたくなくなったんです。家を出ました」

初めての結婚はそのようにして破局を迎えた。一人で過ごしていた28歳、安東(アンドン)金氏の貴族の末っ子という見合い話が舞い込み再婚し、すぐに子どもができた。そこまでして欲しかった子ども、娘を産んだ。しかし夫が問題だった。生活力がないばかりか疑妻症まであり、嫌がらせの中で娘一人を頼みに耐え抜いた。

娘が進学の年齢になると、このままではだめだと思うようになった。7歳の娘を連れて茂朱の実家に戻った。2回目の結婚もそのようにして終わった。

「私が働かなければ生きていけないと思って、子どもを実家の母親に預けたり、小姑にも預けたり…。私一人のせいで家族がどれほど精神的な苦労をしたでしょう」

イム・ミョンオクさんは料理の腕前があった。茂朱で開いたトンタク(鶏の丸焼き)店に客が集まり、当時としてはかなり繁盛した。しかし、娘が中3になった時、トンタク店を整理して大田(テジョン)に移り住んだ。都会に出て娘に良い教育を受けさせたいという母性の切実な思いが下した決断だった。

師範学校を卒業した兄が教師生活を始めると本妻はそこに移り住み、朴玉蓮さんは結婚した兄に従って大田(テジョン)に移り住んだ。そのようにして本妻と妾の生活も終わり、父親が80歳で亡くなる。

ターミナル喫茶店の台所仕事もし、そこで学んだことがあり喫茶店を開いたりもした。家政婦としても働いたが、もっと多くのお金がもらえる工事現場まで行き来して娘を育てた。

1995年4月、朴玉蓮さんはソウル恵化洞(ヘファドン)ナヌムの家に入所する。この時期はイム・ミョンオクさんの人生においても重要な変曲点になる。一緒に集会を行って、証言をして、闘争する母親たちの様子を見つめるイム・ミョンオクさんにも覚醒がやってくる。



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