独立運動家とその遺族からなる「光復会」の金元雄(キム・ウォンウン) 会長が8月15日の光復節(解放記念日)記念式場で余計な発言をした。李承晩(イ・スンマン)は「親日派と結託」し、安益泰(アン・イクテ)は「民族反逆者」だったというものだ。個人の見解なら尊重できる。さらに彼の見解に同意する部分もある。問題は発言の語用論的な脈絡だ。個人的な見解を公式行事で公人の資格で発話したのはどう考えても不適切なようだ。
◆国を分裂させた光復会会長
ここには2つの問題がある。まず、動機の不純だ。光復会の金元雄会長は「土着倭寇」の清算という政権の扇動政治フレームを国民統合の場であるべき光復節記念式に持ち込んだ。光復会の会長が国を2つに分裂させたのだ。さらに大きな問題は認識の偏向性だ。彼の発言は古い民族主義理念、いわゆる「NL(民族解放)イデオロギー」に汚染されている。
結局、彼の宣戦布告で国家主義対民族主義の歴史戦争が再開された。お互い敵のように戦うが、2つの理念は歴史をただ「一つの」見解で裁断しようとする還元主義を共有する。その一つの視点とは、もちろん「自分」の視点だ。一つの視点を絶対化すれば偏向が発生する。相対する偏向で自らの偏向を正当化し、敵対的共生を続けてきた。
右翼国家主義者は「体制」の目で歴史を解釈する。このため独立闘争よりも国家体制の樹立を重視する。ここで政府の樹立に参加した親日派を建国の恩人、救国の英雄と称える偏向が発生する。さらに親日を弁護しようとして、日帝が植民統治で朝鮮の近代化を助けたという極端な主張に向かったりもした。
一方、左翼民族主義者は歴史を「民族」の視点で裁断する。この人たちにとって体制の選択は副次的な問題にすぎない。ここで李承晩政権を分断の元凶と蔑む偏向が生じる。実際、金元雄会長はかつて韓国戦争(朝鮮戦争)に「民族解放戦争の意味」を付与したことがある。このため金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長を偉人とみる集会に行って祝辞を述べたりもできるのだ。
◆2つの神話
『解放戦後史の認識』は国家主義の神話を破壊する役割をした。反共教育ばかりを受けて育った世代はこの本を読んで、教科書の中の反共闘士が皇軍であり、教科書の中の文人が親日派だったという事実に大きな衝撃を受けた。正義感に燃える若い心に、親日派とその後えいが幅を利かせて暮らすこの地の現実は耐えがたい背信感と挫折感を抱かせた。
この絶望感は国家の正統性に対する疑問につながった。「民族正統性は親日派を清算した北朝鮮にあり、韓国は米国を新しい主として迎えた親日派の国にすぎない」。この偏向の政治的表現がまさに1980-90年代を支配したNL運動だった。もちろんこの民族主義の叙事もそれが破壊した国家主義の神話に劣らず虚構的で欺瞞的だ。
この政権の人たちは、反民族行為特別調査委員会を解散させたとして李承晩を親日派の巨頭と見なす。しかしもともと日本で李承晩は強硬な反日人物として知られている。独立運動をし、李承晩ラインで独島(ドクト、日本名・竹島)を守り、韓国戦争中に日本軍の参戦に激しく反対したからだ。知られている内容とは違い、彼の初代内閣に親日派の名前はほとんど見られない。
一方、韓国ほどではないとしても北朝鮮政権も親日派を多数起用した。北朝鮮の『朝鮮全史』にはこのように記録されている。「金日成(キム・イルソン)同志は、過去に少し勉強して日帝の機関に服務したからといってインテリを疑ったり遠ざけたりする誤った傾向を批判しながら、彼らを新たな祖国建設の意味ある道に立たせた」。
一言で南でも北でも国家を建設するうえで親日の技術官僚の助けが必要だったのだ。北でも親日派は労働党に忠誠を尽くして出世した。一方、独立活動家は金日成唯一体制に反対する限り、そこでも粛清の対象だった。延安派とソ連派・南労党系列がそのようにして消えた。NL民族主義も結局、北朝鮮版国家主義理念にすぎなかったのだ。
◆父がいない国
この無駄な論争はそのまま国父論争につながる。国家主義者は李承晩が大韓民国の国父だと主張する。しかし単独政府の樹立は李承晩の業績でもなく彼の誤謬でもなかった。南北がそれぞれ米国とソ連に占領された状態でそれはオプションでなく運命だった。そしてその運命は我々が望んだものとは明確に違った。
一方、民族主義者は金九(キム・グ)を国父として前に出し、金九を暗殺した親日派の国だと大韓民国の正統性を蔑んだりする。このようなものを「発生論的誤謬」と呼ぶ。父が泥棒なら息子まで泥棒なのか。一方、金日成が抗日闘争をしたとはいえ、それが現在の北朝鮮に存在する個人崇拝と3代世襲にまで正当性を与えるわけではない。
この2つの史観は実は歴史修正主義にすぎない。国家主義者は1948年の政府樹立を「建国革命」と見なし、その日を「建国節」として制定しようとする。しかし政府の樹立は「建国」でもなく「革命」でもなかった。憲法の前文によると、大韓民国は「三・一運動で建立された臨時政府」と同時に始まった。我々に建国革命があるのなら、それは三・一独立運動だ。
大韓民国の正統性は主権者の国民にある。戦争の廃虚の上に経済を興したのも我々であり、独裁を打倒して民主主義を築いたのも国民だった。左・右翼全体主義者には「国父」が必要だが、民主主義者は歴史を書くうえであえて国父を要しない。その父をなぜ2人も入れようとするのだろうか。
【コラム】国家主義vs民族主義、歴史が戦争になった=韓国(2)
◆国を分裂させた光復会会長
ここには2つの問題がある。まず、動機の不純だ。光復会の金元雄会長は「土着倭寇」の清算という政権の扇動政治フレームを国民統合の場であるべき光復節記念式に持ち込んだ。光復会の会長が国を2つに分裂させたのだ。さらに大きな問題は認識の偏向性だ。彼の発言は古い民族主義理念、いわゆる「NL(民族解放)イデオロギー」に汚染されている。
結局、彼の宣戦布告で国家主義対民族主義の歴史戦争が再開された。お互い敵のように戦うが、2つの理念は歴史をただ「一つの」見解で裁断しようとする還元主義を共有する。その一つの視点とは、もちろん「自分」の視点だ。一つの視点を絶対化すれば偏向が発生する。相対する偏向で自らの偏向を正当化し、敵対的共生を続けてきた。
右翼国家主義者は「体制」の目で歴史を解釈する。このため独立闘争よりも国家体制の樹立を重視する。ここで政府の樹立に参加した親日派を建国の恩人、救国の英雄と称える偏向が発生する。さらに親日を弁護しようとして、日帝が植民統治で朝鮮の近代化を助けたという極端な主張に向かったりもした。
一方、左翼民族主義者は歴史を「民族」の視点で裁断する。この人たちにとって体制の選択は副次的な問題にすぎない。ここで李承晩政権を分断の元凶と蔑む偏向が生じる。実際、金元雄会長はかつて韓国戦争(朝鮮戦争)に「民族解放戦争の意味」を付与したことがある。このため金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長を偉人とみる集会に行って祝辞を述べたりもできるのだ。
◆2つの神話
『解放戦後史の認識』は国家主義の神話を破壊する役割をした。反共教育ばかりを受けて育った世代はこの本を読んで、教科書の中の反共闘士が皇軍であり、教科書の中の文人が親日派だったという事実に大きな衝撃を受けた。正義感に燃える若い心に、親日派とその後えいが幅を利かせて暮らすこの地の現実は耐えがたい背信感と挫折感を抱かせた。
この絶望感は国家の正統性に対する疑問につながった。「民族正統性は親日派を清算した北朝鮮にあり、韓国は米国を新しい主として迎えた親日派の国にすぎない」。この偏向の政治的表現がまさに1980-90年代を支配したNL運動だった。もちろんこの民族主義の叙事もそれが破壊した国家主義の神話に劣らず虚構的で欺瞞的だ。
この政権の人たちは、反民族行為特別調査委員会を解散させたとして李承晩を親日派の巨頭と見なす。しかしもともと日本で李承晩は強硬な反日人物として知られている。独立運動をし、李承晩ラインで独島(ドクト、日本名・竹島)を守り、韓国戦争中に日本軍の参戦に激しく反対したからだ。知られている内容とは違い、彼の初代内閣に親日派の名前はほとんど見られない。
一方、韓国ほどではないとしても北朝鮮政権も親日派を多数起用した。北朝鮮の『朝鮮全史』にはこのように記録されている。「金日成(キム・イルソン)同志は、過去に少し勉強して日帝の機関に服務したからといってインテリを疑ったり遠ざけたりする誤った傾向を批判しながら、彼らを新たな祖国建設の意味ある道に立たせた」。
一言で南でも北でも国家を建設するうえで親日の技術官僚の助けが必要だったのだ。北でも親日派は労働党に忠誠を尽くして出世した。一方、独立活動家は金日成唯一体制に反対する限り、そこでも粛清の対象だった。延安派とソ連派・南労党系列がそのようにして消えた。NL民族主義も結局、北朝鮮版国家主義理念にすぎなかったのだ。
◆父がいない国
この無駄な論争はそのまま国父論争につながる。国家主義者は李承晩が大韓民国の国父だと主張する。しかし単独政府の樹立は李承晩の業績でもなく彼の誤謬でもなかった。南北がそれぞれ米国とソ連に占領された状態でそれはオプションでなく運命だった。そしてその運命は我々が望んだものとは明確に違った。
一方、民族主義者は金九(キム・グ)を国父として前に出し、金九を暗殺した親日派の国だと大韓民国の正統性を蔑んだりする。このようなものを「発生論的誤謬」と呼ぶ。父が泥棒なら息子まで泥棒なのか。一方、金日成が抗日闘争をしたとはいえ、それが現在の北朝鮮に存在する個人崇拝と3代世襲にまで正当性を与えるわけではない。
この2つの史観は実は歴史修正主義にすぎない。国家主義者は1948年の政府樹立を「建国革命」と見なし、その日を「建国節」として制定しようとする。しかし政府の樹立は「建国」でもなく「革命」でもなかった。憲法の前文によると、大韓民国は「三・一運動で建立された臨時政府」と同時に始まった。我々に建国革命があるのなら、それは三・一独立運動だ。
大韓民国の正統性は主権者の国民にある。戦争の廃虚の上に経済を興したのも我々であり、独裁を打倒して民主主義を築いたのも国民だった。左・右翼全体主義者には「国父」が必要だが、民主主義者は歴史を書くうえであえて国父を要しない。その父をなぜ2人も入れようとするのだろうか。
【コラム】国家主義vs民族主義、歴史が戦争になった=韓国(2)
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