文在寅(ムン・ジェイン)大統領が今月初め、檮オル(トオル)金容沃(キム・ヨンオク)氏の『統一、青春を語る』という本を読んだ後、国民に一読を勧めた。柳時敏(ユ・シミン)氏のYouTubeチャネル「アリレオ」に出演して大胆な内容を整理したのだ。大統領の推薦もあり、この本を買って読んでものの、84ページからなかなか先に進まず、何度か繰り返し読んだ。北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長の母親である高容姫(コ・ヨンヒ)が在日同胞出身であることを話している途中に出てくるのがこの部分だ。
▼柳時敏(ユ・シミン)=「北送船に乗った人々のほとんどは故郷が南側の人々なのに、なぜそれほど多くの人々が北朝鮮に移住することになったか理解ができません」
▼金容沃=「我々が知らなければならないことは北送船には全く強制性はなかったということです。(中略)冷戦体制下で資本主義国家から社会主義国家に民族大移動が行われた唯一の事例といいます。(中略)当時日本に住んでいた朝鮮人の立場から見る時、北朝鮮社会が韓国社会よりも道徳性があり、暮らしの条件も魅力があると感じられたということです。このような歴史を私たちは客観的に反すうしなければなりません」
▼柳時敏=「ああ、本当に重要なことをおっしゃられています」
北送僑胞の選択は、地域別割当量を充足するための朝鮮総連幹部の督促ないし強権が一部あったとは言っても、形式上では「自発的」なやり方で行われた。「新生社会主義祖国建設」の一員になるという使命感、ないしは愛国心を持つ者もいただろう。
だが、それよりも多くの絶対多数は誰でもお腹いっぱいに食べられ、教育と医療費が全額無償という宣伝に惑わされてて右も左も分からない土地に向かった。金容沃氏の話のように、僑胞が向かった朝鮮民主主義人民共和国は「道徳的で魅力的な国」だっただろうか。彼らは自身の選択を後悔せずに北朝鮮で幸せな生活を送っただろうか。北送はたとえ強制動員でなかったとしても、その本質は「巨大な詐欺」だった。北送僑胞出身の脱北者に数人会っただけでも難なく確認することができる。
◆北送在日同胞脱北者とのインタビュー
満60年前の1959年12月14日、在日同胞975人を乗せた帰国船第1陣が日本の新潟港を出発して清津(チョンジン)へ向かった。北朝鮮が「帰国事業」と呼んだ北送の開始だった。1984年までに計9万3339人が北送船に乗った。初期の1960年36次北送船に高知県の僑胞2世の少年ムン・ジュヒョン(現在71歳)も含まれていた。17日、2000年に脱北してソウルに住んでいるムン氏に会った。
「北朝鮮はお金が必要ない社会だと宣伝していて、私もそう信じていた。誰でも商店で必要な物を必要なだけ持ち出して使う社会だと思った。そのような思いは清津港に到着した瞬間から崩れた。荒野に何もない市内の様子、歓迎に出てきた学生たちの身なりが日本とはあまりにも違いすぎた。『間違って来てしまった』と当惑していた父の表情を忘れることができない」
--北朝鮮に行ったことを後悔してずっと生きてきたのか。
「私は水泳選手になるという夢があったので北朝鮮行きに反対したが、父は『祖国で水泳すればいいじゃないか』と言った。なんと、清津どころか平壌にもプールがなかった。『私をなぜ連れてきたのか』と恨んで、1カ月間、父としゃべらなかったこともある。父も後悔のうちに生き、そして亡くなった。『父はどこへ行っても訴える場所もないのだから、あなたが理解して許してあげなさい』という母の言葉が忘れられない」
--生活はどうだったか。
「私たちは他の人に比べれば苦労をあまりしないで豊かな暮らしをしたほうに属する。母が持ってきた日本製のセイコー時計50個のおかげだ。生活が困るたびにそれを幹部や軍将校にこっそりと売った。事務職で仕事をしていた父の月給が1ウォン60銭だった時期に北朝鮮のお金300ウォンを受け取った。母は『地上の楽園というから来たのに、資本主義社会で一生懸命働いて稼いだものを売って生きていかなければならないのが残念だ』と言った。50個が底をついた後は、日本に残った親戚が訪問団として来るたびに時計を持ってきた。僑胞の中にはすべてのものが無償という話だけを信じて布団さえ持たないで来た人々がいたが、その生活は本当にみじめだった」
--在日同胞は北朝鮮でも差別を受けたというのは事実か。
「初めはなかったが、1976年ごろから都市から追い出された人が多い。金日成(キム・イルソン)の写真が乗せられた新聞を折りたたんで保管したなどの理由だったが、私も阿吾地(アオジ)炭鉱に行って製炭工として働いたことがある。日本に残っていた親戚の中で朝鮮総連の幹部をしていた人が1980年に平壌『光復通り』造成事業をする時に日本円で1000万円を寄付し、私たち家族のゆくえを探して阿吾地まで訪ねてきた。その時に100万円を手に握らせてくれながら『もうすぐいいことがある』と言い、その1~2カ月後に清津に戻った」
【コラム】在日同胞の北送事業…北朝鮮演出、朝鮮総連主演、日本政府助演の「巨大詐欺」(2)
▼柳時敏(ユ・シミン)=「北送船に乗った人々のほとんどは故郷が南側の人々なのに、なぜそれほど多くの人々が北朝鮮に移住することになったか理解ができません」
▼金容沃=「我々が知らなければならないことは北送船には全く強制性はなかったということです。(中略)冷戦体制下で資本主義国家から社会主義国家に民族大移動が行われた唯一の事例といいます。(中略)当時日本に住んでいた朝鮮人の立場から見る時、北朝鮮社会が韓国社会よりも道徳性があり、暮らしの条件も魅力があると感じられたということです。このような歴史を私たちは客観的に反すうしなければなりません」
▼柳時敏=「ああ、本当に重要なことをおっしゃられています」
北送僑胞の選択は、地域別割当量を充足するための朝鮮総連幹部の督促ないし強権が一部あったとは言っても、形式上では「自発的」なやり方で行われた。「新生社会主義祖国建設」の一員になるという使命感、ないしは愛国心を持つ者もいただろう。
だが、それよりも多くの絶対多数は誰でもお腹いっぱいに食べられ、教育と医療費が全額無償という宣伝に惑わされてて右も左も分からない土地に向かった。金容沃氏の話のように、僑胞が向かった朝鮮民主主義人民共和国は「道徳的で魅力的な国」だっただろうか。彼らは自身の選択を後悔せずに北朝鮮で幸せな生活を送っただろうか。北送はたとえ強制動員でなかったとしても、その本質は「巨大な詐欺」だった。北送僑胞出身の脱北者に数人会っただけでも難なく確認することができる。
◆北送在日同胞脱北者とのインタビュー
満60年前の1959年12月14日、在日同胞975人を乗せた帰国船第1陣が日本の新潟港を出発して清津(チョンジン)へ向かった。北朝鮮が「帰国事業」と呼んだ北送の開始だった。1984年までに計9万3339人が北送船に乗った。初期の1960年36次北送船に高知県の僑胞2世の少年ムン・ジュヒョン(現在71歳)も含まれていた。17日、2000年に脱北してソウルに住んでいるムン氏に会った。
「北朝鮮はお金が必要ない社会だと宣伝していて、私もそう信じていた。誰でも商店で必要な物を必要なだけ持ち出して使う社会だと思った。そのような思いは清津港に到着した瞬間から崩れた。荒野に何もない市内の様子、歓迎に出てきた学生たちの身なりが日本とはあまりにも違いすぎた。『間違って来てしまった』と当惑していた父の表情を忘れることができない」
--北朝鮮に行ったことを後悔してずっと生きてきたのか。
「私は水泳選手になるという夢があったので北朝鮮行きに反対したが、父は『祖国で水泳すればいいじゃないか』と言った。なんと、清津どころか平壌にもプールがなかった。『私をなぜ連れてきたのか』と恨んで、1カ月間、父としゃべらなかったこともある。父も後悔のうちに生き、そして亡くなった。『父はどこへ行っても訴える場所もないのだから、あなたが理解して許してあげなさい』という母の言葉が忘れられない」
--生活はどうだったか。
「私たちは他の人に比べれば苦労をあまりしないで豊かな暮らしをしたほうに属する。母が持ってきた日本製のセイコー時計50個のおかげだ。生活が困るたびにそれを幹部や軍将校にこっそりと売った。事務職で仕事をしていた父の月給が1ウォン60銭だった時期に北朝鮮のお金300ウォンを受け取った。母は『地上の楽園というから来たのに、資本主義社会で一生懸命働いて稼いだものを売って生きていかなければならないのが残念だ』と言った。50個が底をついた後は、日本に残った親戚が訪問団として来るたびに時計を持ってきた。僑胞の中にはすべてのものが無償という話だけを信じて布団さえ持たないで来た人々がいたが、その生活は本当にみじめだった」
--在日同胞は北朝鮮でも差別を受けたというのは事実か。
「初めはなかったが、1976年ごろから都市から追い出された人が多い。金日成(キム・イルソン)の写真が乗せられた新聞を折りたたんで保管したなどの理由だったが、私も阿吾地(アオジ)炭鉱に行って製炭工として働いたことがある。日本に残っていた親戚の中で朝鮮総連の幹部をしていた人が1980年に平壌『光復通り』造成事業をする時に日本円で1000万円を寄付し、私たち家族のゆくえを探して阿吾地まで訪ねてきた。その時に100万円を手に握らせてくれながら『もうすぐいいことがある』と言い、その1~2カ月後に清津に戻った」
【コラム】在日同胞の北送事業…北朝鮮演出、朝鮮総連主演、日本政府助演の「巨大詐欺」(2)
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