【コラム】ノーベル賞が引き裂く師弟の間
過去2世紀にわたり約10億人の命を奪った結核を治療できる薬を初めて開発したのはウクライナ生まれのユダヤ人だったセルマン・ワクスマン博士だった。米ニュージャージーのラトガース大学で微生物学者として働いていた彼は、土の中から抗菌物質を探そうとする長い努力の末に、1943年に初の抗結核剤であるストレプトマイシンの分離を成し遂げた。人々はもう結核は征服されたと信じ、ワクスマン博士は1952年にノーベル生理学・医学賞受賞者に選ばれる。
ところがワクスマン博士の指示でこの研究を担当しストレプトマイシンを直接見つけ出したのは大学院生だったアルバート・シャッツだった。ラトガース大学を首席で卒業したほど聡明だった彼は研究を引き受けた後は実験室で寝泊まりして研究に没頭した。「私は普通明け方5~6時の間に実験を始め、深夜0時ごろ、時には深夜0時を超えて実験を終えた」と話した彼は、「私は近く自分が何かを発見できると確信した」と回顧したが、彼の直感は間違っていなかった。数カ月ぶりに土中に生息するかびが分泌する抗菌物質のストレプトマイシンを分離するのに成功する。研究を始めたばかりの大学院生が短い時間でこうした驚くべき成果を出したという事実は彼の能力と意志がどれだけ超人的なのかを示している。
同年のノーベル賞は結核薬を開発した人に授与されるという噂を聞いたシャッツは自身と指導教授だったワクスマン博士の共同受賞を確信したが、結局自身は排除されワクスマン博士が単独受賞者に決定されたという事実を決して受け入れることができなかった。
彼はノーベル賞委員会だけでなく当時スウェーデン国王だったグスタフ6世に自身のくやしさを猛烈に訴え科学界はしばらく熱い論争に包まれることになるが、受賞者選定に対して前例がないほど激烈に抗議する彼に科学者はほとんど否定的だったという。この過程で指導教授だったワクスマン博士との関係がぎくしゃくしたのはもちろんだった。結局グスタフ6世はノーベル賞受賞者の訂正はないだろうという点を明確にすることによって状況を整理する。すると彼は特許権を要求する訴訟を提起し、ワクスマン博士とラトガース大学は特許権の一部を彼に譲渡することで妥協した。
われわれは研究の始まりは必ず「好奇心」のためでなければならないと教える。研究に私心が介入する瞬間、研究結果の歪曲や捏造の誘惑にさらされるのもまた事実だ。しかし貧しいユダヤ人移民者の息子に生まれ、いとこのうち自分以外は大学に入った人がだれもいないほど厳しい環境で成長したシャッツが、成功するために必死に研究して成し遂げた業績に対する栄誉が師匠にだけ与えられたことを一生受け入れることができないのは果たして小人物だったためだろうか?
イム・ジェジュン/ソウル大学医学部呼吸器内科教授
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