24年前の1995年初夏、記者は日本にいた。2週間、東京・神戸・広島・北九州を汽車で電車で巡った。寺院や納骨墓を訪ねて回りながら確認したのは、50年余り前に亡くなった人々の白い遺骨が入った箱と壷、死亡者名簿だった。
日帝強占期の日本の領土で強制労働に遭って犠牲になった彼らの足跡をたどるシリーズ取材だった。日本各地のダムや発電所、炭鉱、鉄道にはすべて韓国人の血と汗、涙が染み付いていた。彼らはダイナマイト発破作業で体が吹き飛び、トンネル崩壊で生き埋めになり、横になってようやく体を押し込むことができる炭鉱窟で石炭を掘りながら命を失った。
「金儲けができる」という言葉にだまされて、「戦場に送る」という脅迫に屈して、「皇国臣民になれ」という徴用令状に連行されてやってきた者たちだった。日本の地を踏むが早いか、すぐに最も危険な労働現場に投入された。太平洋戦争末期には理由もなく集団殴打されて命を失うケースも少なくなかった。
「おれたちの故郷は慶尚北道(キョンサンブクト)だがおれはどうして炭鉱に来たのか/炭を掘る時は腹が減って死にそうだが、そういうだけで棒で殴られた/腹が減ったよオモニ会いたい、涙を流しながら手紙を出した」
福岡県筑豊地域に口伝されてきた『朝鮮人坑夫の憂い歌』に当時の惨状が含まれていた。朝鮮人坑夫は「採炭決死隊」「神風特攻隊」と呼ばれて暗黒のどん詰まりの中に突撃しなければならなかった。脱出者が続出すると日本人監督は道々に軍隊式哨所を設置して、捕まえればひどい拷問を加えた。
「朝鮮青年にとって日本は一種の『浪漫』のようなところだった」「徴用より自発的な募集のほうが多かった」「大法院の判決は自発的に募集に応じた人々まで補償することだ」
最近、韓国社会の一角から聞こえてくる主張だ。それなら24年前に記者が日本で目撃したものは一体何だったというのか。なぜその遺骨箱が広島と福岡の寺院にあり、朝鮮人慰霊碑はなぜ立てられたのか。心に悲しく切なく迫るその憂い歌はいったいどこから来たのか。
昨年10月の大法院全員合議体判決文は次の通りだ。(1)1941~43年に募集によって日本に渡った原告は「日本政府と旧日本製鉄の組織的な欺罔(相手を騙して錯誤に陥らせる)」により「生命や身体に危害に及ぶ可能性が非常に高い劣悪な環境で危険な労働に」従事した。(2)具体的な賃金額も分からないまま強制貯金をしなければならず(3)監視を受けて脱出しようとしていたことが発覚すれば過酷な殴打を受けた。
「募集」でも、「動員」でも、「徴用」でも本質は一つだった。反人道的不法行為だ。普通名詞化されたその象徴語が強制徴用だ。
どうして「欺罔」を「浪漫」と語り、被害者の絶叫を加害者のプロパガンダに変え、現実の具体的苦痛を見かけだけの統計で消そうとするのか。「志願して一生懸命働く」とし、朝鮮人に「至誠工」という名前を付けて強制労働を隠蔽した戦犯企業と何が違うのか。今の「強制徴用否定」は「ホロコースト(ユダヤ人虐殺)否定」や「5・18(光州事件)否定」と違わない。小さな弱点と隙間に入り込み、明確に存在する歴史を否定して侮辱する。
24年前に現地取材を助けてくれた人々は日本の良心的知識人だった。彼らは「強制連行を調査する会」を立ち上げて集めた資料を伝え、寺院や現場で案内した。差別と搾取の歴史を恥じながら「もっとたくさんのことを取材して行くように」と激励してくれた。彼らだけではなかった。寺院の僧侶は「なぜ朝鮮人の遺骨を受け入れるのか」という住民たちの圧迫の中で顔も知らない彼らの遺骨を守った。
歴史わい曲よりも恐ろしい歴史否定が進んでいるが、希望を捨てたくない。互いの歴史を否定するのではなく、共に記憶する良心の連帯の上で新たな韓日関係が再び始まるだろうと信じているからだ。真実のための闘争の中で、歴史は鮮明になり綿密になることを知っているからだ。
クォン・ソクチョン/論説委員
日帝強占期の日本の領土で強制労働に遭って犠牲になった彼らの足跡をたどるシリーズ取材だった。日本各地のダムや発電所、炭鉱、鉄道にはすべて韓国人の血と汗、涙が染み付いていた。彼らはダイナマイト発破作業で体が吹き飛び、トンネル崩壊で生き埋めになり、横になってようやく体を押し込むことができる炭鉱窟で石炭を掘りながら命を失った。
「金儲けができる」という言葉にだまされて、「戦場に送る」という脅迫に屈して、「皇国臣民になれ」という徴用令状に連行されてやってきた者たちだった。日本の地を踏むが早いか、すぐに最も危険な労働現場に投入された。太平洋戦争末期には理由もなく集団殴打されて命を失うケースも少なくなかった。
「おれたちの故郷は慶尚北道(キョンサンブクト)だがおれはどうして炭鉱に来たのか/炭を掘る時は腹が減って死にそうだが、そういうだけで棒で殴られた/腹が減ったよオモニ会いたい、涙を流しながら手紙を出した」
福岡県筑豊地域に口伝されてきた『朝鮮人坑夫の憂い歌』に当時の惨状が含まれていた。朝鮮人坑夫は「採炭決死隊」「神風特攻隊」と呼ばれて暗黒のどん詰まりの中に突撃しなければならなかった。脱出者が続出すると日本人監督は道々に軍隊式哨所を設置して、捕まえればひどい拷問を加えた。
「朝鮮青年にとって日本は一種の『浪漫』のようなところだった」「徴用より自発的な募集のほうが多かった」「大法院の判決は自発的に募集に応じた人々まで補償することだ」
最近、韓国社会の一角から聞こえてくる主張だ。それなら24年前に記者が日本で目撃したものは一体何だったというのか。なぜその遺骨箱が広島と福岡の寺院にあり、朝鮮人慰霊碑はなぜ立てられたのか。心に悲しく切なく迫るその憂い歌はいったいどこから来たのか。
昨年10月の大法院全員合議体判決文は次の通りだ。(1)1941~43年に募集によって日本に渡った原告は「日本政府と旧日本製鉄の組織的な欺罔(相手を騙して錯誤に陥らせる)」により「生命や身体に危害に及ぶ可能性が非常に高い劣悪な環境で危険な労働に」従事した。(2)具体的な賃金額も分からないまま強制貯金をしなければならず(3)監視を受けて脱出しようとしていたことが発覚すれば過酷な殴打を受けた。
「募集」でも、「動員」でも、「徴用」でも本質は一つだった。反人道的不法行為だ。普通名詞化されたその象徴語が強制徴用だ。
どうして「欺罔」を「浪漫」と語り、被害者の絶叫を加害者のプロパガンダに変え、現実の具体的苦痛を見かけだけの統計で消そうとするのか。「志願して一生懸命働く」とし、朝鮮人に「至誠工」という名前を付けて強制労働を隠蔽した戦犯企業と何が違うのか。今の「強制徴用否定」は「ホロコースト(ユダヤ人虐殺)否定」や「5・18(光州事件)否定」と違わない。小さな弱点と隙間に入り込み、明確に存在する歴史を否定して侮辱する。
24年前に現地取材を助けてくれた人々は日本の良心的知識人だった。彼らは「強制連行を調査する会」を立ち上げて集めた資料を伝え、寺院や現場で案内した。差別と搾取の歴史を恥じながら「もっとたくさんのことを取材して行くように」と激励してくれた。彼らだけではなかった。寺院の僧侶は「なぜ朝鮮人の遺骨を受け入れるのか」という住民たちの圧迫の中で顔も知らない彼らの遺骨を守った。
歴史わい曲よりも恐ろしい歴史否定が進んでいるが、希望を捨てたくない。互いの歴史を否定するのではなく、共に記憶する良心の連帯の上で新たな韓日関係が再び始まるだろうと信じているからだ。真実のための闘争の中で、歴史は鮮明になり綿密になることを知っているからだ。
クォン・ソクチョン/論説委員
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