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【コラム】無知または無視:韓国の日本対応マニュアル

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
世宗大王(セジョンデワン)は1450年(世宗32年)2月14日に同副承旨の鄭而漢(チョン・イハン)にこのような言葉を残した。崩御3日前だった。結局、これはは遺言になった。「倭(日本)と野人(女真族)への対応は簡単な問題ではない。平安に浸っていれば気が緩まないか本当に心配だ。日々気を引き締めて問題がないようにしなければいけない」(『世宗実録』)。

朝鮮は日本(壬辰倭乱)と女真族が建てた清国(丙子胡乱)によって領土が蹂りんされる屈辱を受け、結局は日本に国を奪われた。立派な指導者の見方はやはり違う。

その後の王は果たして世宗の遺訓に従っただろうか。そうではなかった。朝鮮と日本は通信使(朝鮮側)と国王使(日本側)という外交使節の訪問を交わしたが、通信使の派遣は1479年に途絶えた。日本の動向を把握し、人的情報網を構築する機会を自ら捨ててしまった。朝鮮は100年以上も使節団を送らなかったが、豊臣秀吉の圧力にやむを得ず壬辰倭乱勃発2年前の1590年に通信使の派遣を再開した。このように日本に対しては目を閉じ耳をふさいで、明国ばかり眺めて過ごした。


1590年に送った通信使が翌年に帰国すると、日本が攻め込んでくるかどうかをめぐり高官が口論した。広く知られているように、派遣団の最高位職2人の黄允吉(ファン・ユンギル)と金誠一(キム・ソンイル)の意見が違ったからだ。柳成龍(リュ・ソンニョン)は『懲ヒ録』に、金誠一になぜ侵略の兆候がないと報告したのかと尋ねたところ「国民が動揺しそうで」と答えたと書いた。当時の官僚の水準がそうだった。

外敵侵入の兆候はあちこちで表れていた。1586年と翌年、日本の戦船と推定される船が南海岸で朝鮮水軍と戦った。船に乗っていた彼らの姿は通常の倭寇とは違っていたと朝廷に報告された。偵察と推定される行為だった。1591年には明国が日本の動きが尋常でないという情報を朝鮮に伝えた。『懲ヒ録』によると、このような前兆もあった。「釜山草梁の倭館には常に倭人10人ほどがいた。ところが一人、二人と日本に戻り、壬辰年の春になると倭館から倭人がみんな消えた」。壬辰倭乱は知らずに迎えたのではなく、知りながらもそうでないことを願って手放しにしたということだった。

我々は日本をまともに研究していない。歴史の教科書には韓半島(朝鮮半島)から文物が伝授されたという点と、倭寇が虎視耽々と略奪を狙ったという点が強調される。「植民史観」清算の逆作用だ。教えないものの一つが「白江戦争」だ。韓国はこのように表記し、中国では白江口戦闘、日本では白村江の戦いという。韓国学専門家のパク・ノジャ・オスロ大教授は「なぜそのように韓国で無視されるのか理解しがたい」と指摘した。以前は教科書に記述されることもなかったが、最近は一つの文章ほどで登場する。

歴史の本とドキュメンタリーで自習した内容によると、663年に日本は戦船800-1000隻に兵士を乗せて白江(金剛または東津江)の河口に送った。派兵規模に関する記録は少なくて2万7000人、多くて4万2000人だ。羅唐(新羅・唐)連合軍と対立中の百済残存勢力を助けるために日本の大和朝廷から渡ってきた。当時の百済と日本の関係、さらに東アジア勢力地図が分かる場面だが、戦争の名称さえ聞いたことがない国民が多い。

7世紀に日本は数万人の軍を一挙に西海(ソヘ、黄海)に送り、当時の最強大国の唐と一戦を交えるほどの国だった(大敗はしたが)。古代日本は我々が頭の中に描いているような「遅れた島国」ではないことをこの戦争は語っている。

3月に日系消費者金融業者「サンワマネー」が新規融資を中断した。年1000億ウォン(約92億円)以上を配当金として日本に送っていた会社が資金を回収し始めた。『懲ヒ録』に記録されている「釜山倭人失踪」事態と似ている。市場には、日本政府が韓国に何か深刻な挑発をして両国関係が極度に悪化することを同社が感知したようだという噂が広まった。その頃、日本の元官僚が韓国政府側に日本内閣の強硬な雰囲気を知らせたりもした。それでも韓国政府は機敏に動かなかった。日本が「輸出規制」というカードを取り出した後、政府官僚は大企業の幹部を集めて「日本に営業網と支社を持ちながら何も知らなかったのか」と問いただした。政府には目と耳がなかったという告白だ。昔も今も我々は日本をよく分かっていない。そして大きな声ばかり出している。誰かがまた『懲ヒ録』を残すべきだが、そのような人物は見えない。

イ・サンオン/論説委員



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