1987年11月29日、北朝鮮が起こした大韓航空(KAL)858機爆破事件の実行犯、金賢姫(キム・ヒョンヒ)元工作員を当時全斗煥(チョン・ドゥファン)政府が大統領選挙政局に活用しようとした情況が明らかになった。31日、機密解除された30年前の外交文書には事件の実行犯である金賢姫氏を当時大統領選挙前日である12月15日まで韓国に移送するために韓国外交部が行った交渉の過程が具体的に記されている。
この爆破事件で韓国人乗客93人や外国人乗客2人、乗務員20人など115人全員が死亡した。韓国人乗客のほとんどは中東勤務を終えて帰国の途についた勤労者だった。この事件は金正日(キム・ジョンイル)総書記の指示で翌年予定された1988ソウル夏季オリンピック(五輪)を妨害しようとした工作ということが分かった。
外交部は31日、関連内容が含まれた外交文書1620冊(25万ページ)の原文を一般に公開した。外交部は毎年30年が経過した外交文書を一般に公開してきた。今年は大韓航空機爆破事件およびソウル五輪関連外交文書が含まれた。
公開された外交文書によると、当時韓国外交部は金賢姫氏の身柄引き渡しをめぐって日本と神経戦を繰り広げた。金賢姫氏が身分を偽装して日本のパスポートを持っていたためだ。当時、金賢姫氏が捕えられていたバーレーンに全斗煥政府はパク・スギル元外交部次官補を特使として派遣した。パク元次官補はバーレーン側との面談の後、政府に「遅くとも(1987年12月)15日までに(金賢姫氏が韓国に)到着するためには12日までには引き渡しを通報してもらわなければ」と報告した。大統領選挙日だった16日一日前まで金賢姫氏を国内に移送させるという意図があったと推定できる部分だ。パク元次官補は終盤に移送日程が延期されると、バーレーン側に「大きな衝撃だ。あまりにも多くの問題を提起している」と圧力をかけたりもした。
公開された外交文書には1988ソウル五輪と関連して南北が国際オリンピック委員会(IOC)と繰り広げた神経戦の内幕も含まれている。フアン・アントニオ・サマランチ元IOC委員長はソウル五輪の南北分散開催を韓国側に提案した。実際に、彼は北朝鮮が受け入れる可能性を低いと見たが、それでも社会主義国家の大会参加の名分を作ろうとする思惑があったということが明らかになった。この内容はサマランチ委員長の1984年9月訪韓当時の内容を記録した外交文書に明示されている。
サマランチ委員長は当時、韓国高官に「北朝鮮は決して(分散開催)の提案を受諾できないだろう」とし、「韓国は『できない』と言わずに『IOCが公式提案してくる時、積極的に検討する用意がある』という程度と答えれば良い」と話したと外交文書には記録されている。サマランチ委員長は「社会主義国家が(1984年)ロサンゼルス夏季五輪以降、ソウル五輪への参加を希望し、来る準備もしているが、ただ一つの障害が北朝鮮」としながら「そのため、一つ言い訳を探しているが、もし北朝鮮が種目開催を受諾しなければ(北朝鮮のせいにして)ソウルに行く口実になる」と説明した。結果はサマランチ委員長の予測通りだった。北朝鮮はIOCの仲裁案を受け入れず、ソウル五輪は社会主義国家も含んだ160カ国が参加し、五輪史上最大規模で行われた。
しかし、今回公開された他の外交文書では当時政府がパラリンピックをオーストラリアに渡そうとした情況もあらわれた。1983年初め、オーストラリアが韓国政府側にパラリンピック開催の意向を打診し、初期には韓国政府が施設不足などを公式的理由でオーストラリアに開催権を渡そうとしたと外交文書に記されている。しかし、政府内部で障害者人権保護など国際的なイメージを考えるべきだという声があり、該当件は再検討に入って約1年後にパラリンピックも行うことに最終決定された。
また、今回公開された外交文書によると、韓国政府が当時日本の皇太子だった明仁天皇の訪韓を当時の李源宗(イ・ウォンジョン)元駐日韓国大使と非公式で協議した事実も明らかになった。当時、韓日両国は盧泰愚(ノ・テウ)元大統領の訪日を協議していた。
この爆破事件で韓国人乗客93人や外国人乗客2人、乗務員20人など115人全員が死亡した。韓国人乗客のほとんどは中東勤務を終えて帰国の途についた勤労者だった。この事件は金正日(キム・ジョンイル)総書記の指示で翌年予定された1988ソウル夏季オリンピック(五輪)を妨害しようとした工作ということが分かった。
外交部は31日、関連内容が含まれた外交文書1620冊(25万ページ)の原文を一般に公開した。外交部は毎年30年が経過した外交文書を一般に公開してきた。今年は大韓航空機爆破事件およびソウル五輪関連外交文書が含まれた。
公開された外交文書によると、当時韓国外交部は金賢姫氏の身柄引き渡しをめぐって日本と神経戦を繰り広げた。金賢姫氏が身分を偽装して日本のパスポートを持っていたためだ。当時、金賢姫氏が捕えられていたバーレーンに全斗煥政府はパク・スギル元外交部次官補を特使として派遣した。パク元次官補はバーレーン側との面談の後、政府に「遅くとも(1987年12月)15日までに(金賢姫氏が韓国に)到着するためには12日までには引き渡しを通報してもらわなければ」と報告した。大統領選挙日だった16日一日前まで金賢姫氏を国内に移送させるという意図があったと推定できる部分だ。パク元次官補は終盤に移送日程が延期されると、バーレーン側に「大きな衝撃だ。あまりにも多くの問題を提起している」と圧力をかけたりもした。
公開された外交文書には1988ソウル五輪と関連して南北が国際オリンピック委員会(IOC)と繰り広げた神経戦の内幕も含まれている。フアン・アントニオ・サマランチ元IOC委員長はソウル五輪の南北分散開催を韓国側に提案した。実際に、彼は北朝鮮が受け入れる可能性を低いと見たが、それでも社会主義国家の大会参加の名分を作ろうとする思惑があったということが明らかになった。この内容はサマランチ委員長の1984年9月訪韓当時の内容を記録した外交文書に明示されている。
サマランチ委員長は当時、韓国高官に「北朝鮮は決して(分散開催)の提案を受諾できないだろう」とし、「韓国は『できない』と言わずに『IOCが公式提案してくる時、積極的に検討する用意がある』という程度と答えれば良い」と話したと外交文書には記録されている。サマランチ委員長は「社会主義国家が(1984年)ロサンゼルス夏季五輪以降、ソウル五輪への参加を希望し、来る準備もしているが、ただ一つの障害が北朝鮮」としながら「そのため、一つ言い訳を探しているが、もし北朝鮮が種目開催を受諾しなければ(北朝鮮のせいにして)ソウルに行く口実になる」と説明した。結果はサマランチ委員長の予測通りだった。北朝鮮はIOCの仲裁案を受け入れず、ソウル五輪は社会主義国家も含んだ160カ国が参加し、五輪史上最大規模で行われた。
しかし、今回公開された他の外交文書では当時政府がパラリンピックをオーストラリアに渡そうとした情況もあらわれた。1983年初め、オーストラリアが韓国政府側にパラリンピック開催の意向を打診し、初期には韓国政府が施設不足などを公式的理由でオーストラリアに開催権を渡そうとしたと外交文書に記されている。しかし、政府内部で障害者人権保護など国際的なイメージを考えるべきだという声があり、該当件は再検討に入って約1年後にパラリンピックも行うことに最終決定された。
また、今回公開された外交文書によると、韓国政府が当時日本の皇太子だった明仁天皇の訪韓を当時の李源宗(イ・ウォンジョン)元駐日韓国大使と非公式で協議した事実も明らかになった。当時、韓日両国は盧泰愚(ノ・テウ)元大統領の訪日を協議していた。
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