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「人類は誰もが混血になる」50余年前に韓国で人種差別撤廃叫んだ米国人

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

パール・バック女史が素砂希望院で韓国の子供を抱いている様子(写真=韓国パール・バック財団提供)

「500年もしくは1000年後には人間が誰も混血になるだろうと考える。私は現在の混血の人を『新しい人間(New People)』と呼ぶ」

パール・バックさん(1892~1973)が韓国を訪れた1967年夏、故チャン・ワンノク・ソウル大学名誉教授と交わした会話だ。米国女性で初めてノーベル文学賞を受賞したパール・バックさんは小説家であり50余年前に人種差別撤廃を主張した人権運動家だ。世界人種差別撤廃の日である21日、京畿道富川(キョンギド・プチョン)に位置する社会福祉法人「韓国パール・バック財団」を訪れた。

韓国パール・バック財団のクォン・テンミョン常任理事(69)は「パール・バック女史は中国で自身が異邦人だった経験から人種差別に関心を持つようになった」とし、「米国の黒人など人種差別に対して声をあげた社会運動家だ」と紹介した。


パール・バックさんは米バーモント州で生まれ、生後3カ月で宣教師だった両親と一緒に中国に行った。彼女は約40年間中国に滞在しアジアと深い縁を結んだ。1931年に発表した小説『大地』でピュリッツァー賞とノーベル文学賞を共に受賞した。

韓国に関心が高かったパール・バックさんは韓国を背景にした小説も3編書いた。1965年にパール・バック財団を米国に建てた翌年、海外初の支部として韓国支部を開いた。1967年には京畿道富川に素砂(ソサ)希望院を設立し米軍と韓国女性の間に生まれた孤児をアメラシアン(Amerasian)と名付け、自ら世話した。現在「混血」という言葉は差別的意味を内包すると指摘されている。

素砂希望院は他の孤児院と異なる点がある。クォン理事は「養子縁組も多かったがパール・バック女史は子供達が差別や冷遇があってもこの社会の構成員として生き残らなければならないという考えを持っていた」とし、「自立できるように洋裁・美容技術などを教えた」と話した。

合計2000人余りがこの素砂希望院を経た。パール・バック財団の理事として活動する歌手イン・スニもここに住んではいなかったが奨学金などの支援を受けた。

韓国パール・バック財団は2007年に米国支部から財政的に独立した独立法人になった。現在は多文化家庭・移住女性に範囲を広げて支援する。

韓国パール・バック財団のペク・ウンギョン事務局長代行は「健康(Health)、教育(Education)、生活(Livelihood)、心理(Psycho-social)を支援するHELPプログラムを運営しているが、主に放課後教育、歴史教育など多文化家庭の子供たちの教育に焦点を合わせている」とし、「多文化家庭ではない子供たちもプログラムに一緒に参加し、子供同士自然に触れあいながらお互いに対する理解を高められるようにするのが特徴だ」と話した。

多文化家庭の子供たちが母親の国を訪問するプログラムもある。昨年10年目を迎えた同プログラムは現地の韓国大使館を訪問し、母親の実家の家族と時間を過ごすなど文化的・経済的多方面で2国間の理解度を高めるように構成した。

クォン理事は「移住女性の子供は母親のためにのけ者にされると考え、母親に対する尊敬が比較的少ないが、このプログラムに参加した後、尊敬する心が生まれる長所がある」とし、「また、母親の国の言葉を学んで二重言語可能者として利点が多いということを悟るなど肯定的効果が多い」と話した。

パール・バック財団は17日には人種差別撤廃の日の行事も行った。京畿道と富川市が主催し民間機関15団体から成る富川多文化ネットワークが主管するこの行事は富川北部(プクブ)駅広場で人種に対する認識を改善するキャンペーンなどを行った。

クォン理事は「パール・バック女史は『あなたと私は違うだけで、あなたも正しくて私も正しい』という話をしたことがある。人種差別撤廃の日を迎え、韓国ももう少し開かれた心でお互いを積極的に受け入れることが必要な時」と話した。



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