「菊と刀」は日本の二重性を象徴している。片方の手には菊を、もう片方の手には刀を隠している。菊は平和を、刀は戦争を表す。片方では平和を語りながら、もう片方では戦争をあおっているということだ。このような日本文化論が登場したのは太平洋戦争が終結に向かっていた44年ごろ、米国国務省でだ。一種の戦争報告書として作成され、後で同じ題名の本として出版されてステディーセラーになった。戦争は勝利を目標とする。戦争中の敵に対する分析はただ1回やると言ってそのまま終わりはしない。
米国人の目で戦犯国・日本を分析したこの象徴語が、三・一運動100周年を迎えるこの新年にわれわれにも多くのことを示唆している。われわれの中で日本への見方が交錯する。ある者は菊だけを主に話す。ある者は刀の話を主にする。どちらがが日本の本当の姿なのか。慰安婦問題、強制徴用問題、独島(ドクト、日本名・竹島)問題など、歴史の葛藤が大きくなるたびに日本の二重性に対するこうした二分化が繰り返される。解放以降、そうでない時があっただろうか。一喜一憂せずに少し長い目で考えてみる必要がある。100年前、三・一運動が起きる時もそうだったし、122年前の大韓帝国創建(1897年)の時期もそうだったし、1884年の甲申政変や1876年の江華島(カンファド)条約(日朝修好条規)の時もそうだった。さらに遡ると、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)直前に日本情勢を調査しに行った朝鮮使節2人の目からも菊と刀が発見される。
菊と刀は常に一緒に動いた。大韓帝国時期にも菊の香りに酔った者が多かった。親日開化派たちだ。その時に日帝が開発した「つくりものの菊」が東洋平和論だった。その香りはどれほど強かったのだろう、抗日闘争の英雄・安重根(アン・ジュングン)でさえしばらくする目がくらむほどだった。侵略戦争が東洋平和論でラッピングされていたが、西洋に対抗して韓日中三国が手を取り合い共同繁栄を成し遂げようという甘いささやきに心を惑わされないようにすることはそう簡単なことではなかっただろう。東洋平和論の後ろには征韓論という鋭利な日本刀が置かれていた。征韓論、韓国を征伐するという意味だ。韓国征伐が日本の安保を保障するということだ。征韓論はすでに江華島条約当時に用意されていた。日帝は韓国を侵略して「保護」というとんでもない美名を前に出した。誰が誰を保護するということなのか。中国とロシアの侵略から韓国を保護するという口実を掲げたものだが、その実状を知ると実は保護しようとしていたのは韓国でなく日本そのものだった。日本の二重性の中で最も極悪な事例の一つは、われわれの歴史の記録にメスを入れたことだ。韓国の歴史本の中に隠れている菊と刀のコードを分解して取り出していくことは容易なことではない。われわれが日本の菊と刀に対する一面的な対応を繰り返し、今までずっと内部分裂様相を呈してきた背景には誤った歴史教育が横たわっていると考える。
一例として、明成(ミョンソン)皇后を殺害しに景福宮(キョンボックン)に乱入した日本人の中で、日本外務省機関紙「漢城(ハンソン)新報」の記者たちが含まれていた。彼らの見方で殺害事件が記録され、彼らの中の一部は著名な歴史家になって近代的方式の「朝鮮史」を叙述することに加担したりもした。
誤った歴史教育を正すのは過去100年間ですでにやっておくべきことだったのに、まともにできなかったことは残念なことだ。それでもわれわれ民族がただ座視しているばかりだったわけではない。安重根義挙に続き、三・一万歳運動、大韓民国臨時政府樹立、鳳梧洞(ポンオドン)戦闘、青山里(チョサンリ)戦闘、李奉昌(イ・ボンチャン)義挙、尹奉吉(ユン・ボンギル)義挙などを経て、カイロ宣言を通じて大韓の独立を世界に公表するまで、われわれ民族は激しく闘争した。解放後は70年余ぶりに世界に類例がない産業化と民主化も成し遂げた。海外に出てみると、われわれがどれほどの急成長を遂げたか肌で感じることになる。
今月9日、英国の時事週刊誌「エコノミスト」が発表した「民主主義指数」で韓国は20位を記録した。例年よりやや下落したというが、アジアで最も高い順位だ。十分に誇るだけのことはある。日本が韓国の後に次ぐ21位だった。米国(25位)やフランス(29位)よりも韓国のほうが順位が高い。中国は130位、北朝鮮は調査対象国のうち最下位の167位だ。
問題はこれからだ。東洋平和論と征韓論、菊と刀はいつもわれわれのすぐ隣にあった。これからは韓国の政治家が2つの目をよく凝らして菊と刀を一緒に見ることができたらと思う。そして、100年前の過去とは違い、今日の国際情勢は中国の覇権戦略も大きな問題という点で、日本の歴史わい曲を批判すると同時に、中国の東北工程も批判するバランス感覚を失ってはいけない。
われわれが皆、三・一運動と大韓民国臨時政府100周年を迎えて殉国烈士の前でこのような確約をしてみるのはどうか。日本よりももっと良い国を作っていく、と。歴史わい曲を正すと同時に、新しい100年に向かって日本とポジティブ競争をすることだ。
ペ・ヨンデ/近現代史研究所長・哲学博士
(中央SUNDAY第618号)
米国人の目で戦犯国・日本を分析したこの象徴語が、三・一運動100周年を迎えるこの新年にわれわれにも多くのことを示唆している。われわれの中で日本への見方が交錯する。ある者は菊だけを主に話す。ある者は刀の話を主にする。どちらがが日本の本当の姿なのか。慰安婦問題、強制徴用問題、独島(ドクト、日本名・竹島)問題など、歴史の葛藤が大きくなるたびに日本の二重性に対するこうした二分化が繰り返される。解放以降、そうでない時があっただろうか。一喜一憂せずに少し長い目で考えてみる必要がある。100年前、三・一運動が起きる時もそうだったし、122年前の大韓帝国創建(1897年)の時期もそうだったし、1884年の甲申政変や1876年の江華島(カンファド)条約(日朝修好条規)の時もそうだった。さらに遡ると、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)直前に日本情勢を調査しに行った朝鮮使節2人の目からも菊と刀が発見される。
菊と刀は常に一緒に動いた。大韓帝国時期にも菊の香りに酔った者が多かった。親日開化派たちだ。その時に日帝が開発した「つくりものの菊」が東洋平和論だった。その香りはどれほど強かったのだろう、抗日闘争の英雄・安重根(アン・ジュングン)でさえしばらくする目がくらむほどだった。侵略戦争が東洋平和論でラッピングされていたが、西洋に対抗して韓日中三国が手を取り合い共同繁栄を成し遂げようという甘いささやきに心を惑わされないようにすることはそう簡単なことではなかっただろう。東洋平和論の後ろには征韓論という鋭利な日本刀が置かれていた。征韓論、韓国を征伐するという意味だ。韓国征伐が日本の安保を保障するということだ。征韓論はすでに江華島条約当時に用意されていた。日帝は韓国を侵略して「保護」というとんでもない美名を前に出した。誰が誰を保護するということなのか。中国とロシアの侵略から韓国を保護するという口実を掲げたものだが、その実状を知ると実は保護しようとしていたのは韓国でなく日本そのものだった。日本の二重性の中で最も極悪な事例の一つは、われわれの歴史の記録にメスを入れたことだ。韓国の歴史本の中に隠れている菊と刀のコードを分解して取り出していくことは容易なことではない。われわれが日本の菊と刀に対する一面的な対応を繰り返し、今までずっと内部分裂様相を呈してきた背景には誤った歴史教育が横たわっていると考える。
一例として、明成(ミョンソン)皇后を殺害しに景福宮(キョンボックン)に乱入した日本人の中で、日本外務省機関紙「漢城(ハンソン)新報」の記者たちが含まれていた。彼らの見方で殺害事件が記録され、彼らの中の一部は著名な歴史家になって近代的方式の「朝鮮史」を叙述することに加担したりもした。
誤った歴史教育を正すのは過去100年間ですでにやっておくべきことだったのに、まともにできなかったことは残念なことだ。それでもわれわれ民族がただ座視しているばかりだったわけではない。安重根義挙に続き、三・一万歳運動、大韓民国臨時政府樹立、鳳梧洞(ポンオドン)戦闘、青山里(チョサンリ)戦闘、李奉昌(イ・ボンチャン)義挙、尹奉吉(ユン・ボンギル)義挙などを経て、カイロ宣言を通じて大韓の独立を世界に公表するまで、われわれ民族は激しく闘争した。解放後は70年余ぶりに世界に類例がない産業化と民主化も成し遂げた。海外に出てみると、われわれがどれほどの急成長を遂げたか肌で感じることになる。
今月9日、英国の時事週刊誌「エコノミスト」が発表した「民主主義指数」で韓国は20位を記録した。例年よりやや下落したというが、アジアで最も高い順位だ。十分に誇るだけのことはある。日本が韓国の後に次ぐ21位だった。米国(25位)やフランス(29位)よりも韓国のほうが順位が高い。中国は130位、北朝鮮は調査対象国のうち最下位の167位だ。
問題はこれからだ。東洋平和論と征韓論、菊と刀はいつもわれわれのすぐ隣にあった。これからは韓国の政治家が2つの目をよく凝らして菊と刀を一緒に見ることができたらと思う。そして、100年前の過去とは違い、今日の国際情勢は中国の覇権戦略も大きな問題という点で、日本の歴史わい曲を批判すると同時に、中国の東北工程も批判するバランス感覚を失ってはいけない。
われわれが皆、三・一運動と大韓民国臨時政府100周年を迎えて殉国烈士の前でこのような確約をしてみるのはどうか。日本よりももっと良い国を作っていく、と。歴史わい曲を正すと同時に、新しい100年に向かって日本とポジティブ競争をすることだ。
ペ・ヨンデ/近現代史研究所長・哲学博士
(中央SUNDAY第618号)
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