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【コラム】「混ざった血」は正しくないという純血主義の影=韓国(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
血統と肌の色の他に単一文化、文化純血主義もある。韓国人がすべて檀君(タングン、韓国の開国神)の子孫、単一民族という理念が根深く刻印された理由には韓国人は文化純血主義によって韓国もの、韓国の文化を「正しいこと」と感じる。人々の生活様式であり規範としての文化にどれが正しくてどれが正しくないなどと言えないにも関わらず。私たちが単一民族ということが真実かどうかと論争する必要もない。高麗時代だけでも契丹、女真、モンゴルはもちろんのこと、ウイグルやベトナムからも帰化した。史書に出てくる人々だけでも数千人が高麗に帰化して定着したのだから韓国人が単一民族というのには語弊がある。高麗歌謡の1つである「霜花店(サンファジョム、饅頭屋)」は「霜花店に饅頭を買いに行ったらフェフェおじさんが私の手首をつかんだ」とアラブ系の色目人を指す‘フェフェ’おじさんが出てくる。歌に出てくるほど礼成江(イェソンガン)の下流、碧瀾渡(ピョンナンド)にイスラム商人が大勢やってきて暮らしていたという証拠だ。異民族の帰化は朝鮮時代にも続いた。

1910年代、民族主義者は檀君の韓民族を女真と契丹、モンゴルを合わせた大きな概念で使ったりもしたが、すなわち檀君神話は単一民族を強調して民族的一体感と同質性を高揚させ、日帝に抵抗する民族精神の求心点役割をした。単一文化を優れていると考える民族主義は他のどの国よりも早い戦後復興と経済成長の国民動員にも活用された。

しかし1990年代以降、世界化の波の中で国際結婚による多文化家庭と移住労働者が増えたことで純血主義は他者とともに生きることを妨げる障害になっている。多文化家庭の子供が兵役義務を果たし、あちこちで韓国社会の一員として活動しているのにも関わらず、純血主義の影は依然として濃厚に垂らしている。


多文化社会はスローガンでできるものではない。他人と自分を区別する排他性から抜け出して他者を受け入れるところから始まる。歌に合わせて歌い、歌詞を覚えるといってフレディ・マーキュリーになることはできない。しかし、物理的、言語的暴力のために弱っていく数多くのフレディたちを救うことができる。韓国社会の多文化市民のボヘミアン・ラプソディを傾聴する時間だ。

カン・ヒジョン/西江(ソガン)大学東亜研究所教授



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