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日本の大学の引き出しで眠る北朝鮮文化財…返還問題が近いうちに浮上(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

北朝鮮で返還運動が起きている平壌(ピョンヤン)栗里寺址の石塔の過去と最近の写真。左は1918年に平安南道栗里寺にあった当時の写真、右側は東京ホテルオークラの庭にある最近の写真。(写真=国外所在文化財財団)

では、北朝鮮側の地域から日本に渡った文化財は今どこにあるのだろうか。栗里寺址の石塔のように把握されているものもあるが、ほとんどはその所在が確実でない。ある専門家は「多くの遺物が日本強占期の発掘事業に参加した東京大建築学科の事務室や京都大の博物館の引き出しなどの中に眠っているだろう」と話した。したがって「北側地域で出土した文化財が何点あり、現在どこに保管されているかは正確に把握されていない」というのがこの専門家の説明だ。これに関し国民大日本学研究所のリュ・ミナ研究員は「日朝間の交渉で北側出土文化財に関する問題が出てきても、日本の大学は『自立権』を前に出して所蔵遺物を返還しないと予想される」と述べた。

流出した文化財の返還を望む場合、何がどこにあるかなどの究明は当然、要求する側がしなければいけない。相手が快く対象品目の数量や位置を明らかにすることは期待できない。日本にある北朝鮮出土文化財も同じだ。北朝鮮側が具体的なリストを出してこそ数点でも戻ってくる可能性が高まる。

韓国政府は北朝鮮出土文化財であっても可能な限り元の位置に戻すべきという立場を見せてきた。日本からソウルを経て2006年に北朝鮮に返還された北関大捷碑がその事例だ。この碑石は壬辰倭乱(文禄の役)当時に咸鏡北道の北評事だった鄭文孚文将軍が義兵を率いて倭軍を撃退した事件を称えるために粛宗の時に設置された。もともと咸鏡北道吉州郡(キルジュグン)イムミョン面にあったが、1905年の日露戦争当時にここを通った旧日本軍に発見され、東京の靖国神社に移されて保管されてきた。


このように数奇な北関大捷碑の運命は結局、1978年から始まった韓国政府の返還運動で変わった。執拗な韓国側の返還要求が続くと、日本政府は咸鏡北道から運ばれた碑石であるだけに南北間の合意があれば返還すると明らかにした。これを受け、南北は碑石を返還されれば最終的に北側に移すことで同意した。日本としては返還しないわけにはいかなくなったのだ。結局、北関大捷碑は日本に渡ってから100年後の2005年にソウルに戻り、翌年の2006年に開城(ケソン)を経て北朝鮮に返還された。南北協力を通じて日本所在の北朝鮮出土文化財が無事に返還されるという成功事例が生じたのだ。

こうした経験から、日朝国交正常化交渉が本格化する前に韓国政府や民間団体が北朝鮮出土の文化財の現況や所在を把握するのを支援するのが望ましいという専門家らが多い。民間レベルではすでに平壌栗里寺址の石塔の返還のために南北間の協力がかなり以前から進行している。

また、日本人の中にも韓国から奪ってきた文化財は返還しようという運動に積極的に参加した人たちも少なくない。このような人たちで構成された代表的な団体が「韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議」だ。この団体は日本宮内庁に保管されていた朝鮮王室儀軌が2011年に返還されるのに大きな力になった。

とにかく今の雰囲気では遠からず日朝修交が実現する可能性が高い。金正恩国務委員長が非核化で大きな決断をすれば速やかに進展するのは確実だ。こうした場合に備えて日本国内の北朝鮮出土文化財に対する調査が一日も早く進められる必要があると、専門家らは指摘している。



日本の大学の引き出しで眠る北朝鮮文化財…返還問題が近いうちに浮上(1)


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