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【コラム】私たちには被害者の情緒があるのか=韓国(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

【コラム】私たちには被害者の情緒があるのか=韓国

韓国の文化に詳しいある外国人の知人と対話をした時、「韓国人には被害者の情緒があるようだ」という言葉を聞いた。気分がよい言葉ではなかった。「長期間にわたり弱小国として生きてきたからだ。あなたのような強大国の国民はよく分からないと思う」とトゲのある言葉を返した。

しかしその指摘は心の片隅に刺さっていた。韓国社会にそのような側面があり、それが必ずしも地政学、政治外交の問題だけではないという点を私も記者をしながら何度か感じた。さらにそのような情緒を作ることに自分も加わってきた。特に事件・事故が生じた時にそうだった。

災難が発生すれば韓国メディアが追う記事の内容には概して2つの方向がある。一つは胸が痛むエピソード。犠牲者のうちに新婚夫婦、就職したばかりの青年、厳しい環境の中で親の世話をしてきた親孝行な息子・娘、一人暮らしの父親がいなかったかどうかを調べる。もう一つは政府機関の無能な対処だ。対応が遅くなかったか、関連規定をすべて守ったか、規定に問題はなかったかを調査して強く批判する。


もちろん両方ともメディアが扱うべき内容だ。韓国政府が数十年間にわたり弱者を保護する任務を正しく遂行できなかったという事実も確かだ(もしかするとその歴史は数百年、数千年にのぼるかもしれない)。しかし悲劇を毎回「権力者の過ちで罪のない人々がまた犠牲になった」という形で見せようとすることに抵抗感を抱いた。深く考えずあまりにも慣性的であり社会の不信を助長するアプローチではないかと感じた。

同じ状況で米国メディアが見せる態度と比較すると、そのような特徴があまりにも目立つ。米国メディアは「英雄づくり」に没頭するようだ。現場の警察官や消防署員、通行人、または犠牲者のうち、他の人より少しでも勇敢な行動をした人を見つけて集中的に取り上げる。これも少し大げさであり、社会的な副作用を招きかねない報道形態だ。ただ、そのようなニュースの読者や視聴者は「私も同じような状況に直面すれば勇気を持って率先しなければいけない」という気になる可能性がある。

ところが韓国メディアのそのような態度は韓国的な情緒の原因であり結果でもある。報道機関も企業であるため人々が求めるものを見つけようとする。すなわち報道機関と読者・視聴者がますます強度が強まるフィードバックをやり取りするということだ。



【コラム】私たちには被害者の情緒があるのか=韓国(2)


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