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「逃げるように選んだ日本行き、そこで出会った軍艦島…すべて運命」(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

小説家・韓水山氏は小説『軍艦島』に善良な日本人も登場させた。そのため、2009年に出版された日本語版『軍艦島』が「ナショナリズムを越えた」という日本言論の評価を受けて4万部が売れたという。

軍艦島を初めて扱った韓水山氏の小説『カラス』(2003年)。

スクリーン寡占問題などで興行の勢いは削がれたものの、映画『軍艦島』は日帝強占期について改めて考えさせるきっかけを与えた。朝鮮人強制労役の実状に対する関心が高まった。原作小説を提供したわけではないが、映画の根幹には小説家韓水山(ハン・スサン)氏(71)がいる。韓氏は軍艦島を本格的に扱った全5巻の長編『カラス』(原題)を2003年に出版した。これを2巻に大幅改作した『軍艦島』を昨年出版し、この小説がスクリーンの想像力を刺激して映画が誕生した。韓氏は『カラス』以前までは大衆的なイメージが強かった。韓氏はどのようなきっかけで軍艦島を小説として書くことになったのだろうか。11日、韓氏に会った。

--どういったきっかけで小説『軍艦島』を書くことになったのか。

「運命的だとしか言いようがない。1989年、東京のある古本屋で『原爆と朝鮮人』という冊子に出会った。日本人人権運動家の岡正治牧師(1994年死去)が代表を務めていた『長崎・在日朝鮮人の人権を守る会』から出されていたもので、日本人特有の粘り強さで、長崎原爆によって死亡した朝鮮人が1万~1万2000人という推算値を算出して提示していた」


韓氏は「そのような歴史を知らなかったという自責の念にかられて小説の執筆に必要な取材を始めた」と話した。韓氏は当時、日本に住んでいた。81年に中央日報に連載していた小説『欲望の街』の内容の一部がきっかけで保安司令部(保安司)に連行されて拷問を受けたが、その時保安司令官だった盧泰愚(ノ・テウ)氏が87年に大統領に当選してすぐ翌年、故国に背を向けたところだった。「途方もない巨悪に目を開き、歴史と社会に対する関心の幅を広めていった頃、ちょうど軍艦島について知った」と話した。当時、軍艦島は最近と比べると出入りははるかに自由だった。徴用被害者の年齢も70代が多く、一緒に島に入って現場調査ができた。「そのような偶然的な要素は、今考えると運命的に感じられる」ということだった。

なぜ軍艦島だったのだろうか。映画とは違い、小説は長崎の原爆被害を大きく扱っている。当時、長崎は日本の軍需財閥・三菱の根拠地だった。太平洋戦争で使われた日本軍の魚雷の80%が長崎の三菱製作所で製造された。兵器製作所だけで朝鮮人徴用者が2000人以上が連れてこられて働いていた。このため朝鮮人の原爆被害が大きくならざるをえなかった。それに比べて軍艦島と呼ばれた瑞島の朝鮮人徴用者は500~800人に過ぎなかった。だが、地獄島と呼ばれた。周辺の海流は激しく、一度島に足を踏み入れれば脱出は不可能だった。長崎刑務所の囚人を苛酷に働かせて軍艦島の炭鉱を開拓した時期の名残が残っていたため、殴打が日常的だったほど朝鮮人徴用者は手ひどく扱われた。韓氏は「一言で、軍艦島は日本軍国主義が圧縮された場所だった」と話した。



「逃げるように選んだ日本行き、そこで出会った軍艦島…すべて運命」(2)

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